ホラー写真はイメージです Photo:PIXTA

かつて日本人は、なす術なく因果因縁の糸に絡みとられる怪談ばかりを語っていた。だがその糸に抗い脱しようとする人々の恐怖もまた、江戸怪談は描いている。怪談・都市伝説研究家の吉田悠軌氏による解説付きで「四谷怪談」と「皿屋敷」をお楽しみください。

※本稿は、吉田悠軌『教養としての最恐怪談 古事記からTikTokまで』(ワン・パブリッシング)の一部を抜粋・編集したものです。

皿屋敷

 どの城下町にも、放ったらかしにされた更地があり、そこには古井戸だけがぽつんと残されているものだ。そして井戸にまつわる怖ろしい噂が、口々に囁かれるものだ。

 ただその噂は、町によって様々にかたちを変えていくのだが。

 そこにはかつて立派な武家屋敷が立ち、身分の高い主人と、お菊という若い女中がいた。主人はお菊に目をかけていた。愛人にしようとしつこく言い寄ったのか、本気の恋慕を寄せていたのか。ともあれお菊は、主人の好意をきっぱりと拒否する。袖にされた主人は復讐心を抱き、主人の妻は激しい嫉妬の炎を燃やした。

 そんななか、屋敷に伝わる家宝の皿が欠けてしまう。

 殿様からいただいたという10枚1組の絵皿。そのうちの1枚を、お菊が不注意で割ってしまったのだ。いや主人が皿をこっそり隠し、お菊が盗んだ濡れ衣を着せたのだという人もいる。ともかくその報いはお菊に向けられ、連日にわたる拷問が始まってしまう。

 小刀や針を突き刺したとも、縄で縛り上げ宙に吊るし、火で炙(あぶ)り水に沈めたとも。果ては大量の蛇がいる穴に突き落とし、もだえ苦しむ様を嘲笑(あざわら)ったとも伝えられる。

「10枚揃った皿の1枚が欠けたのだから、お前の十本ある指も一つ欠けねばならんな」

 主人は刀を振るうと、泣き叫ぶお菊の右手中指を斬り落とした。武家屋敷の中は治外法権。下女の生き死になど、特権階級の判断でどうにでもなるのだ。

 このままでは処刑される。その直前、お菊は縄で縛られたまま、なんとか監禁部屋から抜け出した。髪はざんばら、帯もほどけ、むごたらしい傷で足をひきずり歩いていった。

 屋敷から逃げおおせるためではない。主人夫婦に殺される前に、自ら死を選ぶためだ。裏手の竹やぶに底知れぬ古井戸があることは知っていた。念仏を唱え、袂(たもと)に無数の小石を入れると、お菊はその井戸の中へと飛び込んだのだ。

 それからである。夜ごと裏手の井戸から、女の声が響くようになった。