「ひとつ、ふたつ、みつ、よっつ……」

 弱く震える声は、そう順繰りに9まで数えると。

「……かなしやのう」

 なにかが一つ足りないことを嘆くのだ。それが明け方までずっと続くのだ。

 家来や奉公人たちは怖れをなし、1人残らず屋敷から逃げ出していった。それがお菊の声であることを誰もが承知していたからだ。いつのまにか失踪したと主人から聞かされていたお菊の、しかし本当はあの古井戸で死んだはずのお菊の声なのだ、と。

 主人夫婦は新しい勤め人を雇おうとしたが、もはや屋敷に来るものなど誰もいなかった。それどころか地元民たちも家の敷地に近づこうとすらしなかった。夫婦の悪事とお菊の祟りは、もはや周知のことと知れ渡っていたのだ。

 なにしろ異変はまだまだ続いていた。主人夫婦は新たに子どもを授かったが、その子は生まれつき右手中指が1本欠けていたとか。さらには井戸から奇妙な虫がぞろぞろと湧き出したのだが、それは縄で縛られたお菊の姿そっくりなのだとか。

 そしていつしか、夫婦の姿もなくなった。

 もちろんその原因も複数の説が囁かれている。病死だとも、発狂したのだとも、敵(かたき)に殺されたのだとも、悪事が露見したため領地没収の上どこかに軟禁されているのだとも。

 これが、哀れなお菊にまつわる怪談だ、どこでどう語られたかによって、この話の細かい部分はいくつか異なってくる。ただ、いつも同じところが一つだけ。

 かつて屋敷があった更地――更屋敷の井戸を、皆がひどく怖ろしがっているという点だ。

POINT
・皿を割ったために折檻され、井戸に身を投げたお菊の霊が現れる
・お菊伝説の地は全国に48カ所あり、内容は微妙に異なる
・武士階級による女性虐待を告発したのが「皿屋敷怪談」ではないか