よく泣き、よく怒った道長
“恩人”にも激ギレ!?

 道長の怒りは、娘の立后に貢献した藤原行成にも容赦なく向けられました。道長は、自分の病の時に祈祷(きとう)してくれた僧侶・覚縁を僧綱(仏教の僧尼を統括し、大寺院などを管理する役職)に任命するよう、一条天皇に伝えることを行成に命じました。数日後、行成が天皇にそのことを奏上、天皇は僧綱の件を許可されたと行成は道長に伝えます。

 ところが、後日、天皇は僧綱のことについて何も言ってはいないと、道長に伝わってくるのです。道長は行成に「僧綱のことについて、いい加減なことを言ったな」と怒りました。

 また、その3年後、行成が大中臣輔親の申文(下位の者から上位の者へ、願い事などを書いて差し出す文書)を天皇の勅裁を仰ぐため上申しなかったことに、道長は激しく怒りました。「極めて、配慮のないことだ」と行成を叱ったのです。

 先述のように、行成は道長の娘・彰子の立后に動き、道長からも、この恩は忘れない、子孫の代までも親交は続くだろうと感謝された人物です。

 ちなみに、道長が行成に対して怒った騒動は、彰子の立后後の出来事です。当時の感謝はどこへやら……。行成は度々、道長から叱責(しっせき)されたようです。

 ただ、道長は行成だけに怒ったわけではありません。道長の先駆けの従者が、花山院の門前で追捕(捕えられた)された時などは、「もし、従者に咎(とが)があったのならば、私が帰宅した後に捕らえればよいのだ。それなのに、御前に私がいる間に、捕えさせた。怪しむべきことである」と、検非違使庁(都の治安維持を担う官庁)に怒りを向けるのでした(1005年)。

 また、敦明親王(三条天皇の皇子。母は、右大臣藤原済時の娘)が、関係が悪かった藤原定頼を殴ろうとしたとの話を聞き、道長は大いに怒ります。その怒りは、三条天皇にも向いたというから、恐れ多いことです。天皇のことを何と言ったかは分かりませんが、道長の怒りは、身分の高下関係なく向けられたのでした。

主要参考・引用文献一覧
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長 男は妻がらなり』(ミネルヴァ書房、2007)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
・倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社、2023)
・倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社、2013)