「加入するメリットがわからない」「面倒だから入りたくない」という声もある町内会。地域住民による古臭い組織のように思われがちだが、かつての町内会は住民それぞれの知恵や力を寄せ合って町の発展に寄与する、オープンな組織だったという。そんな町内会が「全戸加入」を原則に掲げるようになった意外な理由とは?※本稿は、玉野和志『町内会 ――コミュニティからみる日本近代』(ちくま新書)の一部を抜粋・編集したものです。
世界に先駆けていた
日本のアウトソーシング
戦前から戦後もしばらくの間、日本では独占的な大企業部門だけではなく、家内工業的小商品生産者や小営業者などの自営業部門が比較的分厚く存続し、農業や中小企業のさまざまな部門において労働者の自営業者への移動が多かったことが、社会移動研究によって知られている。
この激しい競争が中小零細自営部門の技術水準を高めることになり、日本の大企業は比較的早期に中小零細企業を下請けとして活用することができるようになる。いわば、ずっと後になって欧米先進国でも一般化するアウトソーシングである。
つまり自営業による町工場を維持することは、大企業にとっても一定の合理性があったのである。いわゆる日本経済の二重構造とよばれるもので、少なくとも1970年代までは、零細な都市自営業者が存立する基盤が、構造的に用意されていた。
他方、大正から昭和にかけての都市化は、工場主だけでなく、商店を経営する自営業者の存立基盤をも用意するものであった。
都市への人口集中は日常買い回り品の流通を必要とした。しかし当時の財閥資本には、軍需産業を中心とした鉄鋼、造船などの重工業部門への特化が求められたので、戦後のダイエーやイオン、イトーヨーカドーのような商業資本への展開までは手が回らなかった。そこに都市の商店街が成立するニッチが存在したのである。