分解された農民層から
自営業者が誕生した

 とりわけ都市近郊の村落では、次三男が工場に働きに行き、小金を貯めると商店主として独立を図ったり、あるいは実家が少し資本を出してやって、漬物屋などを経営するといったことが見られた。都市近郊の村落では、このような形で農民層分解が進んだのである。都市雑業層としての露天商から、八百屋や魚屋になった人もあっただろう。

 もちろん、ここでも成功するのはごく一部であったが、それでも多くの労働者はその可能性にチャレンジしたのである。政府もまた、このように潜在的失業者の多くを吸収した商業部門を、商店街を単位に組織化し、改善することで、百貨店と並んで都市生活を支える基盤として整備する商店街政策を推進していったのである。

 ここで重要なのは、工場街にしても、商店街にしても、戦前から戦後の1970年代ぐらいまでは、経済構造として中小零細自営部門がそれなりに存立する余地があったということである。つまり、労働者や都市の雑業者から自営業者へと上昇するルートが、わずかながらも開かれていたのである。

 町内会の起源に関する議論においては、行政組織から枝分かれしたとか、もともと旧来の行政区を基盤としていたという、それなりに有力な説がある。しかしこれらはいずれも都市ではなく村落としての行政組織が前もって存在した地域や、そのような村落がのちに都市化した地域においての議論であった。

 したがって、もともと都市であった地域の町会については、別途検討が必要である。村落から小作や雇いであった人々が流入し、労働者として働いたり、一時的に都市の雑業に従事した人の一部が、やがて自営業者となっていくという大正から昭和にかけての都市化の時期に、町会ないし町内会は、どのようにして成立したのだろうか。