他人の「自虐的発言」を
全面否定してはいけない理由

 そもそも、「良い/悪い」などといった程度表現を使って何かを評価する場合には必ず、その人が想定している「標準的なレベル」が存在し、どのあたりを標準と考えるかは人によって異なる(注1)。

 たとえば誰かが100点満点の試験で60点を取ったと聞いたとき、標準的な点数を50点ぐらいだと想定している人は「そこそこの成績だね」と言うだろうし、80点ぐらいが標準だと思っている人は「いやいや、悪い成績だ」と言うだろう。つまり、同じものに対しても、標準をどこに置くかで評価が変わる。

 自己卑下発言は、今の自分のあり方が「私が考える標準レベルより低い」ことを表明するものだ。

 この中には少なからず、「私は安易に何かを良いと思ったりしない人間だ。私が想定している標準は、そこら辺の奴らが考える標準とはレヴェェェェルが違うのだ」という「理想の高さ自慢」、さらには「私は自分自身に対しても、客観的で容赦のない評価ができる」という「客観性を失わないワタシ自慢」が含まれていたりするので注意が必要だ。

 また、「良さ」とか「美しさ」とか「面白さ」などに関する評価はたいてい、評価軸が一意に決まらない。たとえば同じ絵を見ても、技術面を重視して「いい絵だ」と評価する人もいれば、絵から受けるインパクトなどを考慮して「あまり良くない」と言う人もいるだろう。

 つまり、どこをどのように見るかによって、何通りもの評価軸が考えられる。それを考慮に入れると、他人の自虐的発言の中にも、「私が何かを評価するときに着目するのは、そんじょそこらの奴らには考えもつかないような側面だ」といった「目の付けどころがシャープ自慢」が含まれているかもしれない。

 つまり自虐的発言を全面的に否定すると、本人が暗に自慢したかったこれらの要素まで否定してしまうことになりかねない。

(注1)
 標準的なレベルをどのあたりに置くかは、その他さまざまな要因によって変わってくる。たとえば試験の点数が60点でも、平均点が5点の試験だったら「ものすごく良い成績」ということになるだろう。また、「大きいアリ」「小さいゾウ」と言う場合、普通は「アリとしては大きい」「ゾウとしては小さい」ことを意味している。

 つまり評価対象となるものの種別によっても水準が変わる。このあたりは拙著『自動人形の城─人工知能の意図理解をめぐる物語』(東京大学出版会、2017年)でも取り上げているので、お読みいただけると嬉しい。