皇太子一家そろって演奏を聴いた。演奏後は夫妻を囲んで琉球箏曲についての談話会が開かれた。
宮城栄昌は明仁皇太子が独学で作歌した琉歌は「琉球方言での30の音数律をもつ短歌で、誰でも作れるものではないが、殿下は「作ってみなければ味がわからない」と話しておられた」と言う。そして「皇太子ご夫妻の沖縄に対するご関心の深さは、戦争で傷みを受けた住民の心をご自分の傷みとされているところにあると感ぜられる。そして沖縄人の気持ちを汲むのには、沖縄に関する事実を科学的に認識した上でなければならないというご態度である」と見ていた。
皇太子搭乗機レーダーから消失?
ヨルダンでの“皇太子失踪事件”
4月18日、紀宮は7歳になった。同月から学習院初等科に進んだ。9日の入学式では兄たちと同様、両親の皇太子夫妻に付き添われて四谷の初等科の門をくぐった。
6月8日、皇太子夫妻は13回目の外国訪問として、ヨルダン、ユーゴスラビア、英国への旅に出た。ヨルダン、ユーゴスラビアへは天皇の名代として、英国へは前年来日したエリザベス女王の招待を受けてだった。ユーゴは訪問先としては初めての社会主義国である。
夫妻は非公式訪問地のタイで1泊後、9日にヨルダンの首都アンマンに到着した。空港にはフセイン国王夫妻が出迎えた。市街では日本語で書かれたアーチが掲げられるなど歓迎一色だった。同日夜は国王夫妻主催の晩餐会に出席した。同国滞在中は遺跡都市のジェラシ、ヨルダン渓谷、死海、ペトラ遺跡などを見学した。
何ごとも「インシャラー(神の思し召しのままに)」の国柄でハプニングが続出。案内役のハッサン皇太子が熱心さのあまり予定外の訪問先を次々に追加したため、連日スケジュールが1~2時間遅れとなった。友好のしるしとしてアラブ馬のサラブレッド5頭が贈られたが、日本側は「高価なものは受け取れない」と事前に断っていたものだった。極めつきは皇太子の”失踪事件”だった。ペトラ遺跡から飛行機でアカバに向かう途中、明仁皇太子とハッサン皇太子の乗機がコースを外れて行方不明に。