ローストビーフを食べられるということ自体が、実はとても特別なことなのだという単純な社会経済的事実だ。肉の塊なんかそう簡単には食えんのですよ、庶民(the commoner)は。

 もう1つ言っておかなければならないのは、塊肉を美味しくローストするのは簡単ではないということだ。温度管理と時間。ただ火の中に肉を放り込んでおけばいいというものではない。今にもまして脂身の少ない赤身肉ばかりだった18世紀や19世紀である。そもそも飼育法だって飼料だって今とは異なるから、肉はずっと硬かった。

 それを無造作に焼くだけで本当に美味かったのだろうか。そういう細かい、しかし実際口にするならばちゃんと気を配らねばならない事柄を一気にカッコに入れてしまって、ローストビーフが愛国心の象徴などとは何をか言わんや、である。肉に失礼である。

 単純で簡素な調理とこの肉の希少性という単純で簡素な事実が相まって、自前の限られた資源を無駄なく直截に使用するローストビーフが実にイギリス的だということで愛国主義の象徴となり、300年近く。

 逆に、複雑さと豊富さは自国の外に求め、しかしそれらを失わないように帝国を作りあげていつでも収奪可能な状態にキープした。単純で簡素なローストビーフという料理は、複雑怪奇な帝国事情の合わせ鏡か。

意外と「チキン」だった!?
「鉄の女」の素顔

 そんなローストビーフに、そんな牛肉に、最大の危機が訪れる。牛海綿症脳症(Bovine Spongiform Encephalopathy)、俗に狂牛病(Mad Cow Disease)のまん延である。それまでに散発的な症例報告はあったが、1990年代の流行は牛か羊などの家畜から伝染した人間がイギリス国内で少なくとも170~180人が死亡したことから、大きな健康リスクとして世界的ニュースになった。7万頭以上の牛が殺処分され、EUへの牛肉輸出は禁止され、マクドナルドはイギリス産牛肉の使用をやめると宣言し、日本では2005年、1980年から1996年の間に1日でもイギリスに滞在した人間からの輸血、献血は禁止された(その後2009年に30日以下の滞在ならOKとなった)。