骨髄や特定の内臓部位以外なら食べてもOKだとか、化学飼料のやりすぎが原因だとか、さまざまな憶測と「科学的」根拠の応酬は数年続き、イギリス政府による真剣な取り組みも後手に回ったことから、食肉産業としては大打撃を受けて市場価値も下がり、イギリス産牛肉の信用もガタ落ちになった。
それは同時に、イギリス人的男らしさの危機でもあった。ローストビーフを食らってマッチョなイギリス人になろう!という300年の伝統の源である肉そのものが、信用を失いつつあったからだ。
もちろん、ヴェジタリアンには関係ない話だろうし、牛の放牧のために森林破壊が進み牛のゲップや輸送による二酸化炭素排出によって地球温暖化が加速化しているから牛の話など読むのも嫌だしそもそも牛肉を食べないという人にも、どうでもいいことかもしれない。しかしこれは徴候的だ。
コモナーズ・キッチン 著
帝国の崩壊、ヨーロッパの一部であることの拒否、男らしさの衰退。マーガレット・サッチャーが首相を辞任した1990年あたりから、狂牛病の深刻さが世間に知れ渡りだした。妥協を許さぬ強烈なリーダーシップで福祉財源を切り捨て貧富の差を拡大させてイギリス社会をめちゃくちゃにした、愛国心に溢れ、移民を排斥し、社会なんてものよりも私的な個人からなる家族を大事にしなさいと説いた稀有な政治家。
さぞかし牛肉が、それもきっとサンデーローストが大好きだったのだろうと思いきや、2010年に公開された彼女の私生活に関するアーカイヴ資料をすっぱ抜いたタブロイド紙によると、彼女がとくに好んだのは茹で卵とグレープフルーツだった。
朝食にも昼食にも平均2個ずつは食べたらしく、その記事はご丁寧に彼女が週28個もの卵を食べたことになると書いている。ステーキやラムチョップの夕食もあったようだが、ローストビーフは出てこない。そしてサッチャー家のサンデーローストは鶏だった。昼にローストチキンを食べ、夜にはその残りを食べたという。
自覚的に「鉄の女」を演じていたサッチャーは、鉄分豊富な赤身肉ではなく、意外と「チキン」だったのかもしれない。