2や3は、それほど共感はしない。これは国による文化的な違いか、もしくはおそらく私が公園に行くと主に子どもに混じって遊んでいてよその親の声が届きにくい場所にいるからかもしれない(公園でのポジショニングはおおまかにいって「子どもは内、親は外縁」である。私は内寄りにいる)。

 だから結論として「気にしすぎかもしれませんよ」と思わなくもないのだが、例示された光景に近いものは何度も見かけたことがあるから日本でも充分ありえるとは考えられる。

 2も3も本来なら親は子にそっとささやけばよく、わざわざ周囲に聞こえるように言う必要はない。しかし公園が親にとってある種の舞台としての機能を備えている以上、よその親が始める突発的なステージを完全に回避することはできない。

 自分のところの「親と子の関係」だけをまっとうしようとして公園にきている親でも、よその親の持論展開の領域に巻き込まれ、強制的に「親(自分)とよその親のコミュニケーション」が開始されて心は穏やかではなくなる。子連れの公園が居心地が悪くなりがちなゆえんである。

どうやって「公園のストレス」から解放されたか

 クララ・ジョルジュ氏はそうした公園のストレスから現在は開放された。どのようにしたか。いわゆる「無関心な親」と言われているような態度を取るようになったそうである。具体的には子どもたちに介入せず、ほったらかしで、自分は適宜スマホなどを見ながら、たまに子どもたちに視線をやる。

 子どもたちは元気に遊んでいるようで、よその親も気にならない。これは子連れ公園のストレスを極限まで減らすための親の態度としてひとつの完成形であろう。

 世間的には、積極的に子どもに関わる親の方が望ましく感じられそうだし、「公園でスマホの親」は批判の対象になりそうな光景だが、それでも公園に連れてこないより連れてきた方が子育て的には優れているかもしれないし、ほったらかしにすることで育まれる自立性もあるだろうから、良し悪しは一概にいえない。公園では子どもにみっちり関わるスタイルの私からすると、彼女の「無関心な親」的な態度にはスマートさや羨ましさを覚える。

 とはいえ、やはりよその親の動向はものすごく気になる。私が公園で、よその親関連でストレスを感じるのは次の2つである。

1、自分の子を適切に監督してくれているか
2、親のルール・マナー違反