東京大空襲の記録において
地下鉄の証言がわずかな理由

 この時の話をぜひお聞きしたい、そう思い正信寺に問い合わせたところ、石川さんはご健在であった。しかし、ご子息の現住職・石川慈慧さんによれば、残念ながら、ご高齢で当時の記憶は失われてしまったという。

 筆者は『戦時下の地下鉄』を執筆するにあたり、1972年から1973年にかけて東京空襲を記録する会が編纂した『東京大空襲・戦災誌』の証言ひとつひとつに目を通したが、地下鉄に関する証言はごくわずかであった。

 なぜ地下鉄が話題にならないのか。それは開戦後の度重なる終電繰り上げで、地下鉄の終電は午後10時30分頃まで早まっており、東京大空襲が始まるころには駅のシャッターは閉じられていたからだ。

 東京大空襲の3日後に行われた大阪大空襲では、市営地下鉄の心斎橋駅や本町駅、大国町駅が出入り口を開放しており、駅に飛び込んで難を逃れたという体験談や、難波から梅田方面に避難列車が走ったという証言がある。

 大阪市交通局の労働組合は1997年に調査したものの、交通局OBからの証言はなく、当時の運行資料も残っておらず、真相は明らかにならなかった。だが、複数の証言から、少なくとも駅が避難場所になったことは間違いないとされている。

 東京では同様の対応はできなかったのか。ある女性運転士は後年、東京大空襲の夜に浅草から渋谷まで避難民を乗せて走ったと語っているが、3月10日夜のことか、もしくは、他の空襲と混同していると思われる。

 というのも、銀座線は1月27日の空襲で銀座駅のトンネルが損傷したため、2月1日から3月9日まで、浅草~三越前、三越前~京橋、京橋~新橋、新橋~渋谷間をそれぞれ往復する複雑な運行をしており、3月9日夜の時点では空襲最中の三越前までしか走れなかった。浅草~渋谷間の通し運転が再開したのは、奇しくも東京大空襲から明けた3月10日の初電からであった。

 では駅に避難することはできなかったのか。少なくとも正史には、そのような対応を行った記録はなく、『東京大空襲・戦災誌』にも確証を得られる証言は見つけることができなかった。筆者もそれ以上の調査を断念していたが、そこに石川さんの証言が見つかった。