自らの肉体に巣くった
病魔との闘い
1996年8月4日。転移性肺がんのため68歳で旅立ってから今年で28年になる。
「もうそんなに早く時間が過ぎたんだ」と思うと呆然とする。関敬六(1928―2006)や谷幹一(1932―2007)ら親しかった芸人仲間と一緒に東京・新宿にある墓をお参りしたことが懐かしい。
本稿を執筆するにあたり、命日の数日前だったが、久しぶりに墓参りをした。墓地の周りにはタワーマンションが立ち並び、周囲の風景はすっかり変わったが、どこからかセミの鳴き声が聞こえてくる。この日の東京の最高気温は35.6度の猛暑日。暑い夏は、亡き人を偲ぶにふさわしい季節でもある。
墓石に渥美清の名はない。本名「田所康雄」の名が刻まれている。ファンの男性がひとり手を合わせていた。「8月4日になったら、友人たちとまた一緒に来るんです」と言う。俳優の三國連太郎(1923―2013)が28年前、お別れの会の弔辞で「いくら笑っておられても目だけは冷静にひとりひとりを見つめていた」と述べたように、非情なまでの現実主義者でもあった渥美だが、亡くなって28年経った今も、こうしてファンが訪れることはうれしいに違いない。
矛盾するようだが、渥美にはとても熱い血が流れていた。捨て身の演技には凄まじいまでの狂気がある反面、人情喜劇ではしたたかに「古き良き日本人」を演じ、観客の涙を誘った。人間の機微、社会の矛盾……。あの細い目で森羅万象の深いところを見ていたのだろう。
唯一の趣味といえるのが俳句だった。誘ったのは永六輔(1933―2016)といわれている。「五七五」の短い詩の中に重ね合わせる心象風景。「渥美ちゃんにピッタリ」と永は思った。渥美はこんな俳句を詠んだ。
《お遍路が一列に行く虹の中》
《赤とんぼじっとしたまま明日どうする》
赤とんぼは、渥美自身のことなのかもしれない。自らの肉体に巣くった病魔との闘いの中で、絶望や不安に駆られることも多かったに違いない。
「寅さん」撮影の合間に
突然“位牌”を作った理由
私生活のほとんどを周囲に隠していた渥美だったが、例外は関敬六だった。「浅草フランス座」(編集部注/ストリップ劇場。ここで多くのコメディアンが修行を積んだ)時代からの友人で、ともに1928(昭和3)年生まれ。四角い顔の渥美に対して、まん丸顔の関。泥くさいドタバタ喜劇役者でもあったが、関との友情は続いた。