国民的俳優・渥美清が「板橋のドブに頭を突っ込んで死にしたい」と願ったワケ国民的俳優・渥美清 Photo:SANKEI

「板橋のドブ」で死ぬのが理想と語った渥美清は、最後まで世間に病気を隠し通して亡くなった。“寅さん”役で国民的人気俳優となった渥美は死を目前にして、何を思いながら生きたのか。自身もがんと闘い、昨年他界した著者が綴った渥美の“死に際”とは。本稿は、小泉信一『スターの臨終』(新潮新書)の一部を抜粋・編集したものです。

「不思議な人だった」
渥美清の生い立ち

 渥美清は不思議な人だった。強烈な上昇志向を持っていた反面、「人生なんてしょせんそんなもの」という諦めに似たようなものを心の片隅に潜ませていた。自分の死についても「板橋のほうの職安脇のドブに、頭を突っ込んでいるような死に方をしたい」と願っていた。

 板橋とは東京23区の北西の区。渥美にとっては、貧しかった少年時代、暮らした街である。生まれは東京・上野だったが、8歳のとき越してきた。渥美は小学校に昼の弁当を持ってこられず、支給された玄米飯を食べていた。あたりは一面の麦畑。西の空に富士山が見えたという。

 通っていたのは志村第一尋常小学校(現在の板橋区立志村第一小学校)。勉強は大嫌い。授業を受ける時間より廊下で立たされている方が長かったという。が、記憶力は抜群。ラジオ放送の講談や落語は聞いたそばから覚えて学校で披露し、みんなを笑わせたそうである。

 そんな板橋時代を懐かしむかのような「板橋のほうの職安」。渥美ならではの、ありありと目に浮かぶような表現である。職安に集まる失業者たちがこんな風に噂する情景も、渥美は思い浮かべた。

「こいつはテレビで昔見たことがある。渥美清という奴じゃないか」

 浅草芸人の多くが、あれこれジタバタしても結局は花を咲かせず、無名のまま終わったのに対し、渥美は死後、国民栄誉賞を受賞するという名誉(?)にあずかった。

 若いころ結核で入院。右肺を摘出した。病院は埼玉県の春日部市にあり、何かの機械を回すベルトの切れ端が天井からぶら下がっていて、風が吹くと「ピターン、ピターン」となったという。ベッドの上で、「♪赤い靴、はーいてたー」と大好きな歌を歌ったそうである。

「芸人は男か女か訳が分からないほうがいい」「氏素性などよけいな情報がないほうがいい」と言っていた。所詮、人間は孤独。ドブに頭を突っ込んで死ぬ、というのが浅草芸人らしい幕の引き方、と思っていたに違いない。ベタベタした人付き合いを嫌った。

 寅さん映画で共演した柄本明は「人に触られたくないし、触りたくないというのかな。あっさりしているんです」と語る。