
JR東日本が社運を賭けるプロジェクト「TAKANAWA GATEWAY CITY(高輪ゲートウェイシティ)」が3月27日、まちびらきを迎えた。都心では最大級となる約10ヘクタールの都市開発は、どのように結実したのか。筆者は3月25日に行われた内覧会と、開業翌日の28日に現地を訪れた。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)
約20年をかけて生み出された
「高輪ゲートウェイシティ」
品川車両基地の跡地に新駅を設置し、周辺でエキマチ一体開発を進める「高輪ゲートウェイシティ」開発構想が発表されたのは2014年6月のことだった。当時の発表には、「品川駅・田町駅周辺エリアは、首都圏と世界、国内の各都市をつなぐ広域交通結節点としての役割が強まって」いるとして、「従来の発想に捉われない国際的に魅力のある交流拠点の創出を図っていくこととしました」と記されている。
とはいえ、いきなり街を作ることはできない。その前提となったのが、2002年3月に発表された「宇都宮・高崎・常磐線の東京駅乗り入れ(東海道線との相互直通運転)」、現在の「上野東京ライン」の整備だった。
各路線はもともと上野駅発着だったが、線路自体は東京駅とつながっており、一部に直通運転が行われていた。しかし、東北新幹線の建設時に連絡線を廃止して新幹線に転用したため、上野~東京間の線路は分断されてしまった。
JR東日本は発足直後から上野~東京間の再接続を模索した。東京圏の鉄道整備構想をとりまとめる運輸政策審議会が2000年、上野東京ラインを「2015年までに整備することが適当な路線」と答申して計画を承認したことで、計画は2002年に本格始動した。
2002年の構想発表時点で、乗り換え不要や所要時間短縮などの利便性向上、混雑緩和に加え、「車両留置箇所の見直しによる車両基地用地の有効活用」が挙げられていたように、上野東京ラインと品川車両基地の再開発は表裏一体の計画だった。
上野東京ラインは当初、2009年度の開通を目指していたが、環境アセスメントの遅れで着工が2008年にずれ込み、予定から5年遅れて2014年度末に完成した。
上野東京ラインの開通に先立ち、車両基地を海側の遊休地に移設する工事に着手し、2013年11月に切り替えが完了した。その後、山手線・京浜東北線の線路移設工事が、2018年6月、2019年11月の線路切り替えで完了。2020年3月に高輪ゲートウェイ駅が先行開業した。広大な用地は20年近い時間をかけて、ようやく生み出されたものなのである。