ラテン語 「見られる」にあたるvideriは受動態で、受動は常に他者が関わってきます。他者がいなくなったら、成立しない。一方でesse「ある」は能動態なので、自分自身で成立します。ヤマザキさんの旦那様にも刺さったようで喜ばしいです。
ヤマザキ たった3語の単純な言葉なのに、深い。そういうことをうちの夫は言っていましたね。それもまたラテン語の格言の魅力ですね。
esse quam videriに関連する言葉として、inops, potentemdum vult imitari, perit「力のない者が力のある者を真似しようとすると滅びる」も紹介させてください。日本的な言い方に置き換えると「大風呂敷を広げる」になるのかな。とにかくいっぱいいますよね、こういう人。ラテン語さんの周りにもいません?
“何者”かになれという
教育の虚しさ
ラテン語 私に関しては、どうでしょう。ラテン語をやろうとする人がまだ少ないので。
ヤマザキ ラテン語界隈ではそうかもしれませんが、表現者の業界では多いですね。自己主張というか自意識というか、自分が認められたくてしょうがないという人は、自分ができることよりも何倍も大きな風呂敷を広げて、人を圧倒させるまではいいのだけど、その姿勢を維持するとなると、なかなか容易ではありません。
等身大の自分と向き合えない人はかわいそうだと思いますね。日本の教育では、生まれてきたからには世に役立つだけではなく、ありがたがられる存在になることが、理想的な人間のあり方として教え込まれる風潮が強いですよね。そもそも「何者」って何を指しているのか、っていう話です。
たとえその人の為すことが社会的には地味で謙虚で目立たない仕事であっても、大きく称賛されるような功績をおさめることではなくても、でも自分にできる範囲の仕事を律儀にこなしていく、という人も立派な“何者”だと思うわけですよ。でも世の中“何者”というのは、社会的に認知されるような大きな結果を出し、評価されるような人を指しています。根拠のない“何者”です。