加藤は特に小弥太に信任されていたようで、「合資の社長岩崎(小弥太)さんは、事業について精通しており、また見識をもっていました。しかし銀行の仕事についてはあまり関心がなく、三菱系企業が金融のことで会長のところへ頼み事をもっていくと『加藤君何とか考えてやってくれよ』といった調子でした」(『中公新書129 財閥』)。

 加藤は常務時代から主要な分系会社の社外監査役・取締役を兼務し、「六大銀行の重役のうちでこれだけ産業部門に関与してゐる者は日本では珍し」い(『財界人物読本』)といわれ、三菱銀行常務就任時に「三菱の分系会社公開の仕事も担当するために合資会社にも席を持っていた」(『各務鎌吉伝 加藤武男伝』)。

 つまり、加藤は三菱財閥の金融部門を実質的に一手に引き受けていた。

戦後の金融逼迫で
辣腕をふるった三菱銀行のボス

 三菱財閥解体後、三菱本社代表清算人の石黒俊夫が、現役社長と旧本社長老の間を奔走して、現在に続く社長会「三菱金曜会」を結成。三菱グループの再結集の道筋を整えた。

 石黒は東京大学卒だが、もっとも頼みにしていた長老が加藤だった。石黒が新入社員としてスタートを切った三菱合資銀行部京都支店の支店長が加藤だった。石黒にとって、社会人としての初めての上司が加藤だったのだ。

 さらに好都合なことに、戦後間もなく、旧本社の長老はバタバタと死去してしまい、加藤が最有力の長老になった。そして、戦後は金融が逼迫していたので、企業が成長するためには融資が必須条件で銀行の力は絶大だったが、三菱銀行のボスが加藤だった。

 実質的な三菱銀行の戦後第1号の頭取は千金良宗三郎、慶応義塾卒である。加藤にはアタマがあがらない。加藤は三菱財閥傘下の企業が離散することを憂え、再結集に尽力した。

 その上、加藤は岩崎家からの信頼が厚かった。

「三菱には戦前、戦中、岩崎久弥と岩崎小弥太の両家があって、共に号令をかけていた。この二人の実力が伯仲で一種緊張した関係にあり、当人同士は直接対話することができなかったのです。それで、二人の当主の間を行ったり来たりして、両家の調整役をしたのが加藤武男だったんですよ。その縁で、岩崎家に最も近い人間として、財閥解体後の三菱グループで発言力が強まった。