戦後の彼は、解体された銀行を統合し、三菱商事も合併・復活させ、旧岩崎家の会社を一つ残らず拾い上げて行くんですよ。そのために、三菱銀行に巨額の融資をさせている。彼が本当に働いたのは、戦後、相談役として裏に引っ込んでからでしょう」(「OBの一人」の談話『週刊新潮』1990年3月2日号。なお、銀行は解体されていないので、証言者の誤認だと思われる)。

慶応義塾の大物OBとして君臨
曾孫は慶応義塾大学長に就任

 加藤はアイデアマンではあったが、平素は奇抜なことはせず、他人の言うことをよく聞いて極めて順当な判断をくだした。そのため、三菱グループでの調整で支持された。

 加藤は1963年に死去するが、65年に三菱グループでゴタゴタがあった際、三菱グループ首脳の1人は「こんなときに加藤武男さん(故人)、元三菱銀行頭取が、いてくれれば、はっきり始末をつけてくれただろうに…」とこぼしていたという(『エコノミスト』1965年6月29日号)。

 加藤は血脈の上でもゴリゴリの慶応閥だった。福沢諭吉の甥・中上川彦次郎の女婿が池田成彬で、加藤は池田の妹婿なのだ。「池田成彬がその人物に惚込み、妹を夫人にもらつてもらつたといふのである」(『三菱コンツェルン読本』)。

 池田は戦後間もなく死去したが、若い加藤は1963年まで生きながらえたので、戦後は慶応義塾の理事として塾長選出にも関与するほど、大物OBとして君臨した。

「愛塾心に富む加藤は、三菱系各社で役員が退任すると、後任には慶応出身者をできるだけもってくるよう政治力を発揮した。またその愛塾心は、二人の息子を慶応で学ばせ、娘は慶応出身者に嫁がせるほどに徹底していた。自身も母校をバックアップすると同時に、母校の人事にまで関与した」(『学閥の興亡』)。

 そんな人物に、「小弥太なども銀行の人事を相談する場合、串田や瀬下をさしおいてこの加藤に相談する」のだから、三菱銀行に慶応閥が形成されたのも不思議ではなかろう。そして、戦後の三菱グループで慶応閥が徐々に拡がっていったのはいうまでもない。

 ちなみに、2021年に慶応義塾大学長に就任した伊藤公平は、加藤武男の曾孫である。