一般の学校ではいわゆる道徳科目がありますが、キリスト教系の学校では道徳の代わりに聖書を学び、仏教系の学校では仏典や仏教の教えを学ぶことになります。

 また、高校になれば倫理という科目である種の道徳観や、西洋・東洋の哲学や宗教、人としての価値観などを学びますが、いずれも背景には日本固有でない宗教的な裏付けが存在しています。

 戦前の日本は、神道を国家神道に祭り上げ、日本書紀、古事記を経典と位置付けましたが、戦後は政教分離が基本になりました。

 政教分離を徹底し、宗教色を取り去った中で日本人としての道徳を学び、身につけるのはかなり難しいかもしれません。「お天道様が見ているから、悪いことはしてはいけない」といった言い回しさえ、近年ではなかなか聞かなくなっていますよね。

 教養とはよりよく生きることであり、人間を知ることにつながります。実はこれは宗教も同じです。

 人々が特定の宗教に帰依することが当たり前の国では、人生の悩みを救ってくれるのはまずは宗教。近年は宗教離れが進んでいる国もありますが、教会から足が遠のいているだけで、いわば教養や道徳としての宗教は失われていません。

カルト宗教にのめり込む
高学歴エリートたち

 一方、日本では宗教が持つ「人の悩みや苦しみ、死の恐怖を和らげる」という役割は急速に失われています。

 このことが特に問題視されたのが、90年代に事件を起こしたオウム真理教(現アレフ等)の信者たちでした。

 幹部たちは、理系を中心に日本でも有数の大学を卒業した高学歴のエリートばかりでしたが、「自分たちは何のために生きるのか」に対する答えを見つけられなかった彼らは、オウム真理教に出合い、「これだ」とばかりにこぞって入信したのです。

 仏教や神道、キリスト教など日本に根付く伝統宗教は、彼らにとっては自分を救ってくれるものとは思えなかった。そこで、チベット仏教やヒンドゥー教、仏教などをミックスしたカルト的な教えにのめり込んでしまったのです。