四半世紀前となる99年、巨額赤字を計上し2兆円を超える有利子負債を抱えた瀕死(ひんし)の日産に救済の手を差し伸べたのがルノーだった。ルノーは6430億円を日産に出資し36.8%の筆頭株主(その後43%に)となり、COOとしてルノーから派遣されてきたのがゴーン氏だった。再建計画「日産リバイバルプラン」を進め、日産をV字回復させて以降、日仏連合の蜜月は続いてきた。

 その後、政権が長期にわたる中で、16年に三菱自動車工業を傘下に収めたゴーン氏は、3社連合による世界制覇の野望を抱き、グローバル生産・販売拡大に拍車をかける。一方で長期政権の負の側面も浮き彫りとなり、18年にはゴーン氏の特別背任の疑いなどによる突然の逮捕と、19年末のレバノンへの逃亡によってゴーン時代は終わりを告げた。

 だが、日産はそのゴーン時代の拡大路線のツケを払わせられる。生産・販売体制の無理な拡大が業績悪化につながり、それは現在まで尾を引いている。

 そうした混乱が続く中で、日産の“手綱”を握ってきたのが、スナール氏だった。日産取締役会でのスナール氏の存在感は大きく、5年前の19年12月に社長に就任した内田氏とCOOのグプタ氏の人選でも、スナール氏の影響が大きかったとされている。

 加えて、両社の資本関係も大きく変わった。一時は仏政府の意向もあり、ルノーが日産を統合するもくろみも存在したが、23年11月には、両社が15%ずつ相互出資する“対等関係”へと変わった。さらに、今年の3月にアライアンス契約を見直し、両社が相互出資しなければならない最低限の比率を15%から10%に下げると発表されている。

 つまり、いまや日産は“ルノー支配”から明確に脱したことになる。資本面から見ても、スナール氏の退任から見ても、両社の“疎遠”は明らかだ。