このルールについて「けしからん!」と思う人はたくさんいるかと思います。僕もそう思います。たとえば愛する人を殺されたとして、その犯人がお酒や薬物で心神喪失状態だったから無罪なんて言われたら、どんな気持ちになるでしょう。「何をしているかわからなくたって、やったことは同じだろう?被害者が受ける痛みや悲しみは同じだろう?理不尽じゃないか!」と、やり場のない強い感情が込み上げてくることでしょう。

自分がある日突然に
「ゆるされる側」に立たされたら?

 しかしイエスは、自分が被害者の立場でありながら、裁判長に「この人は自分が何をしているかわからなかったんですから、無罪にしてあげてください」と嘆願したようなものです。相手が裁判長ではなく神様である分だけ、余計にすごいかもしれません。そこまでの「ゆるし」の心を僕たちは持つことができるでしょうか。少なくとも僕には難しいです。

 では反対に「ゆるされる立場」ならどうでしょう。ある日目覚めたら拘置所にいて「君は人を殺したんだよ」と言われる。自分には何の記憶もない。こんな状況で裁判を受けて死刑になるとしたら。「わからなかった、覚えていなかったとはいえ、やってしまったものは仕方ない」とそれを受け入れられるでしょうか。

 そして、そんな非日常な話ではなくとも、僕たちは時として日常生活の中で「自分が何をしているかわからない」状態に陥ってしまっています。たとえば無意識に発してしまった言葉が誰かを深く傷つけていたり。酔っ払って記憶をなくして誰かに迷惑をかけていたり。何かの役職を自分が得るということが、誰かが役職を失うことであったり。ちょっとした凡ミスが大きな損失を招いてしまったり。喜んで飛び跳ねていたら、誰かに拳が当たってしまったり。