しかしその十字架によって、イエスによる真の「解放」は達成されました。十字架で死に、3日目に復活するという奇跡によって、イエスは人間を「死」、つまり人間をそれまで閉じ込めていた、人間が人間である故に必然的に囚われてしまう「枠」から解放しました。
群衆は、昨日まで慕っていたイエスに罵声を浴びせ、唾を吐きかけました。おそらくイエスを最も苦しめたのは、処刑を行ったローマ兵たちではなく、昨日まで自分を慕いながら、今日は自分に悪意を浴びせる人たちだったかと思います。そして「絶対に自分は裏切りません」と言いながら、一人残らず逃げてしまった弟子たちではないかと思います。
自分が何をしているか
わからない者を「ゆるす」
イエスは十字架の上で言いました。
「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは、自分が何をしているかがわかっていないのです」
イエスは自分を十字架につけ、「お前が神の子なら自分で自分を救ってみろ」と嘲り、唾を吐き、石を投げ、服を破り、荊の冠をかぶせ、殴り、鞭打つ人たちのために祈ったのでした。
イエスは元気な頃、「味方のために祈るなんてことは誰にだってできる。君たちが憎んでいる敵だって同じことをしているよ。だから君たちは敵には決してできないこと、つまり敵のために祈るってことをしなさいな。そうしたら君たちは敵よりも優れていることになるよ」と人々に教えました。まさにそのとおりのこと、その究極形を十字架の上で手本として示したのでした。
現代日本の刑法では「自分が何をしているかわからない」場合は、殺人や暴行などの罪を犯しても無罪となったり、減刑されたりする場合があります。難しい言葉で言えば心神喪失あるいは心神耗弱の状態、つまりたとえば酩酊していたり、精神疾患であったり、何らかの理由で事理弁識能力、あるいは行動制御能力が著しく失われている状態での犯罪行為の責任は制限される、というのが、少なくとも現代の日本のルールです。簡単に言えば「自分が何をしているかわからない状態なら、ある程度はゆるす」ということです。