「わざとじゃなければセーフ」
子ども社会の寛容を大人にも

 子ども同士の世界では「わざとじゃないならいいよ」という「ゆるし」が成立したりします。「子どものしたこと」は、相手が大人でもゆるされたりします。それは子どもが「自分が何をしているかわからない」存在であるからです。

 でも大人同士の世界では、そんな平和に終わるとは限りません。気づかないような小さなことが「訴訟だ!賠償だ!責任だ!」と大きな問題になりかねません。社会において大人になるということは「ゆるされない」世界に入るということです。つまり大人とは「自分が何をしているかわかっている」存在である、というのが社会の暗黙のルールなのかと思います。

 でも実際は、大人であっても「自分が何をしているかわからない」ケースがまだまだ多々あるんです。大人だってすべてのことについて精通しているわけではありません。得意なフィールドでは世に名高い仕事をする人が、不得意なフィールドでは子ども同然の知識しかない、なんてことは、ごく自然に起こっていることです。

 ですから大人の失敗であっても「わからなかったんだな」という「ゆるし」はできる限りは持っていたいと思うんです。僕自身にも当然「子ども同然」なフィールドが多々あるわけですから。

 イエスの祈りはいわば「子どもだからゆるしてあげてください」という祈りなのかと思います。現実の社会でそれが必ずしも成立するとは限りません。しかし「自分が何をしているかわかっている」が前提の「大人の社会」のルールがどんどん厳格化している現代社会においてこそ、この祈りの存在意義は大きいのかと思います。そして、分断化が進むこの世界でこそ、「敵のために祈る」姿勢が一人一人に求められているのかと思います。