そこに現れたイエスを、多くの人は「この人こそ救世主だ!」と思い、弟子になりました。人々はイエスを、現実としての革命や解放運動を起こす指導者だと思っていたんです。
しかし、イエスの言うことややることからは、いっこうにその気配が見えません。あえて端的に言えば、イエスは物理的・現実的にイスラエル人をローマ帝国から解放するのではなく、人の心や人の存在自体を「国家」という枠から解放することを考えていました。そこで「物理的に解放してほしい」という民衆のニーズと、「人間自体を解放する」というイエスの意図にズレが生じてしまったのでした。
こんなにも慕って期待した
我々をイエスは裏切った
このズレに不満を抱き、あのユダは裏切りました。さらには「僕はこれからエルサレムに行って死刑になるよ」なんてことを言うイエスに、他の弟子たちも「何を言っているんだこの人は。そんなことになったら誰が私たちをローマ帝国の支配から解放するんだ」と、疑問を抱きました。
そしてイエスがローマ兵に捕まってしまうと、直弟子であった使徒たちも「やっぱりあの人は救世主じゃなかったんだ!」と逃げ出しましたし、他にたくさんいた弟子たちや、イエスを慕っていた群衆も、手のひらを返したように「イエスは嘘つきだった!僕たちを解放する救世主なんかじゃなかった!僕たちを騙したな!!」と怒り出しました。
人間というのは、他の誰かに期待をかけて、それが思うようにいかないと怒り出したりするものです。期待をかけた誰かを「裏切った」と糾弾したりするものです。昨日まで慕っていた人を、1つの失敗やスキャンダルによって、今日から叩き出したりするものです。慕っていたからこそ、余計に叩いたりもするものです。イエスは当然、人間のそんな性質もわかっていました。だからこそ自分が十字架につくこともわかっていました。