このままでは死ぬ!
死を感じた瞬間
病気以外で死が目の前に突きつけられると、たいていは心の準備をする暇もなく、かなりの恐怖を感じるのではないか。登山中に滑落するとか、飛行機が墜落しそうになるとか、敵対勢力に拉致された抗争中のヤクザなどは、まさに生きた心地がしないだろう。
私自身は日常的には死の恐怖を感じていないが、いざ目の前に死を突きつけられると、やはりドキッとして、恐怖を感じるかもしれない。
過去に死ぬかもと思ったことは何度かあり、このままいけば危ないと、刹那(せつな)、恐怖を感じたことがある。
たとえば、私は30代のはじめに外務省の医務官として海外の日本大使館に勤務したが、最初の任地サウジアラビアから、南イエメン(当時)に出張したとき、だれもいないプライベートビーチで泳いでいて、沖に流されそうになったときは死の危険を感じ、必死に泳いで足が届くところまでもどれたときには「助かった」と全身の力が抜けた。
同じく医務官時代、サウジアラビアで高速道路の出口を曲がりきれず、ガードレールに激突して、一般道路に飛び出したときは、対向車が来ていたら死んでいたなと思ったこともある。どの車も思い切り飛ばしているので、急ブレーキが間に合うことはまずないから(現に私の在勤中に日本人出張者が事故で亡くなっている)。
フィジーではパイロットを含め6人乗りの小型飛行機で出張し、目的地に着いても雲が厚くてなかなか着陸できず、イチかバチかのようにパイロットが高度を下げたときも、目をつぶらずにいられなかった。
パプアニューギニアでもセスナで山奥の村に向かったとき、同じく雲が厚くて着陸できず、低空飛行で旋回の末、パイロットが出発地にもどると決断したときには、思わず安堵(あんど)の息がもれた。
インドのラダックというところに旅行したときは、案内役のドライバーが猛スピードで何度も対向車線にはみ出して追い越しをしたので、このときも生きた心地がしなかった。
いずれのときも、ハラハラドキドキして、心身ともにぐったり疲れた。
ふつう死は受動的に押しつけられるものだが、自殺者は能動的に死に向かっていく。
恐怖は感じないのだろうか。

私が若いころから追っかけをしている久坂葉子という作家は、1952年の大晦日に、阪急六甲駅で特急電車に飛び込んで自殺をした。神戸の川崎重工の創始者の曾孫で、男爵家の令嬢で、19歳で芥川賞候補になり、自殺したときは21歳だった。
自殺の理由は失恋や厭世、自らの罪深さなどだが、彼女は10代から自殺未遂を繰り返していて、もともと死に対する傾斜が強かった。
飛び込み自殺は一瞬で意識が消えるのだろうが、迫り来る電車に向かって身を投じる決断力は、どのようなものかと想像する。飛び込めばすべては消える。それでいいのか。一瞬でも迷いがあれば、飛び込むことはできないだろう。
自ら死を選ぶ人は、死の恐怖より生のつらさのほうが大きいので、自ら命を絶つのだろう。死ぬのが怖いと思っている間は、自殺の危険性は低いということだ。