志垣は、学者の会として「カナマロ会」(編集部注/日本の核政策に関する研究を行うグループ)や「政策科学研究会(PSR)」のほかに、アメリカ研究会やPVR(Policy Vision Research)、かすみ会(防衛問題懇談会)などの集まりを例示し、それらには全部自分が出席したと述べる。現在まで続いている会もあれば、1回きりで終わったものもあるという。委託の内容や委嘱した学者によって、内調は続ける価値があるかどうかを判断したのだろう。

 また、委託の多くはグループでなく個人に対して行われたと見なければならない。

「志垣日記」(編集部注/志垣民郎が日々の仕事などを綴っていた日記)の1967(昭和42)年10月4日(水)の項に、関西の有力学者を訪ねるため京都に出張した際、京都国際ホテルのロビーに午後7時20分に来た上山春平と、午後8時15分に来た会田雄次(編集部注/西洋史学者)が鉢合わせしないよう、同僚と手分けして誘導するシーンが出てくる。

 学者の中には互いに仲の悪い者もおり、内調は基本的に個別につきあい、学者同士がつながらないよう注意していた。朝日の記事のように情報が漏れれば、委託に影響すると思っていたからだ。

 情報委託費は1970年代に7億円を突破するまでになり、志垣がつきあった学者だけでも優に100人余を数えた。いったい、委託はどれほどの広がりを持つのか、雲をつかむような話に思える。

 だが、「志垣資料」を整理していた時に見つけた、「内調 委託事項」と表紙に墨書きされた手書きの資料は、全容に迫る手がかりになるかもしれない。

1459本のレポートが積み上がり
内調の情報網は広がっていく

「内調 委託事項」は、委託番号、題名、納入月日、執筆者(委託団体)等の項目から成る。

 1959(昭和34)年8月の1番「世界労働組合連盟の国際面における最近の特徴的行動」から記述が始まり、1970(同45)年から項目に委託年度が、1974(同49)年からは印刷所、原稿、印刷部数、印刷費、備考が追加されている。

 題名のうち受領日が書かれているのは1983(昭和58)年12月の1459番「発展途上諸国」までで、受領日が空欄になっているものも含めると、1504番「第2次レーガン政権の出発と日米関係」と「経済の現状と展望」が最後となっている。