「第三の反抗期」実は
キリストと釈迦も経験していた!?
この「第三の反抗期」を経た代表的人物としては、かのガウタマ・シッダールタ、つまり仏教の開祖である釈迦、そしてキリスト教の開祖となったイエス・キリストの2人を挙げることができるでしょう。いずれも歴史的な一次史料が残ってはいないので、彼らの生涯については、あくまで伝承として知ることができるに過ぎません。しかし、両者ともに30歳前後に、それまでの安穏とした生を離脱し、人間の真実に目覚め、そこから宗教者として「第二の人生」を始めているという共通点があります。そして、解脱や覚醒と呼ばれている彼らのダイナミックな内的変革は、釈迦であれば出家から始まる苦行などの修行遍歴、イエスであれば洗礼の後の「荒野の誘惑」と言われる悪魔の試練を経ることによって生じています。
これこそが、「第三の反抗期」において生ずる苦悩や闘いの内容を表しています。しかし、これらあまりに偉大な宗教者の例を引いてしまうと、自分には関係のないことだと思ってしまうかもしれませんが、自分で選ぶことのできなかった「受動的生」から、本当の自分に目覚めて「能動的生」に抜け出ることは、「第三の反抗期」によって十分に実現可能なことであると私は考えています。もちろん簡単ではないし、適切なガイドも必要ではあるものの、内的な苦悩から始まる「内省」という一連の作業によって、このプロセスは宗教者でなくとも進み得るものなのです。
さて、話を戻しますと、最近では、思春期の反抗期自体を経ていないようなケースも珍しくないのですが、これぞまさに、幼少期から「いや」を禁じられてきたことの表れです。当然、どこかで反抗が封じ込められてしまうと、その先の反抗期も生じません。反抗が封じ込められた時点で、その人の心の時間が止まってしまうのです。
ですから、近年よくある「仲良し親子」と言われるような親との密着状態は、決して理想的な親子関係なのではなく、来るべき反抗やそれによる精神的独立が阻害された不自然な状態であることを知っておかなければなりません。それは、心理学的に言えば、共依存という問題が生じていることなのです。
反抗禁止が子から奪うもの
「共依存親子」が怖い理由
農民や職人は、隷従はしても、言いつけられたことを行えばそれですむ。だが、圧政者のまわりにいるのは、こびへつらい、気を引こうとする連中である。この者たちは、圧政者の言いつけを守るばかりでなく、彼の望む通りにものを考えなければならないし、さらには、彼を満足させるために、その意向をあらかじめくみとらなければならない。連中は、圧政者に服従するだけでは十分ではなく、彼に気に入られなければならない。