まずは、「親を愛している」ということと、親を神格化したり、親の問題点に目をつぶるのは決して同じではないと理解しなければなりません。思春期以降になれば、もはや親が神ではなく不完全な人間に過ぎないことは認識できているはずなのですが、これが必ずしも十分でない場合が少なくありません。その背景には、自分の親にもし欠けているところや未熟なところがあるとしたら、その子どもである自分にも同様の問題があることになってしまう、といった怖れが潜んでいるのかもしれません。
「親譲りの無鉄砲」は
ウソかもしれない?
確かにある程度は、親から子に遺伝的に継承されるところはありますが、それが精神的な領域において、決してすべてに及んでいるようなことはないと知っておく必要があるでしょう。親から子に受け継がれている精神的性質は、皆さんが思っているよりもかなり限定的なものにとどまっているものです。しかも、それは「性格」といった次元で継承されるのではなく、あくまでその素材である「資質」レベルのものです。この「資質」自体には、優劣や良し悪しはありません。
一方の「性格」とは、生来の「資質」が養育環境やその人の歴史の下で固有に形作られていくものを指します。ですから資質が似通っていたとしても、それをどう磨き発展させていくかによって、性格というレベルでの表れ方はかなり異なってきます。つまり「性格」というものは、生来のマテリアルである「資質」が、その人の歴史の中でどのように発展したり変形したりしたかによって形成されるものなのです。よく、「性格は変えられない」という思い込みを持っている方がありますが、これは正しくは「資質は変えられない」と言うべきであって、「性格」は、いくらでも後天的に変え得る余地があるのです。
もし親子というものが、皆さんの思い込んでいるほどに似通っているのだとすれば、人々がこれほど親子関係に悩んだり自分を愛せない状態に陥ったりするはずはないでしょう。つまり、もしそうであったなら親子間の価値観のズレはあまり生じないので、子どもが歪むことも極めて少ないはずなのです。