「トンビがタカを生む」という言い方がありますが、傍から見れば、実際そんな風になっていることも少なくありません。親が、我が子をよく観察せずに「自分と同じだろう」と思ってトンビの価値観をタカである子どもに押し付け、その結果、子どもに奇妙な歪みを作ってしまうケースは、とても多いのです。

「べき論」を強制する親は
子を洗脳してしまう

 イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクは、こんな格言を遺しています。

鷲は烏に学ばんと身を屈した時ほど時間の損失をしたことがない。
獅子と牛とを同一の法によらしむることは圧制である。
-ウィリアム・ブレイク『ブレイク詩集』「天国と地獄との結婚」土居光知訳(平凡社ライブラリー)

 また、「親や年長者を敬うべきである」「親には感謝すべきである」といった儒教的道徳についても、立ち止まってきちんと考察してみなければなりません。

 そもそも「敬うべき」「感謝すべき」という言い方の中に、この考えの破綻がはっきりと表れているのです。「敬う」や「感謝」というものは、本来、自発的に自然に生ずる感情であって、もしこれが「べき論」で強制されるとすれば、ずいぶん似て非なるものになってしまうでしょう。「べき論」で強制されて人が表面上「敬う」ように振る舞ったとしても、それは洗脳されてしまった結果か、方便として不本意ながら演技しているかのどちらかであって、実に不気味な状態だと言わざるを得ません。

 つまり、そもそも親や年長者が自然に下から敬われ感謝されるような人間であれば、このような道徳は必要とされないはずなのです。むしろ、この種の儒教的道徳が持ち出されるときには、まずそれを持ち出した人間の不純な動機を疑ってみなければなりません。その人自身の在り方が、下の人間への「べき論」の強制なしには「敬われない」「感謝されない」ことになりかねないと思う危機感から、道徳という大義名分を笠に着て「俺を敬え」「親に感謝しろ」と強制しているに過ぎないと考えられるのです。