悪意より最悪なのは
「あなたのためなのよ」
親について考える作業をしていると、親の言動について「良かれと思ってしつけのつもりで言ってくれていたのだから」と考えるので、なかなか批判的には向き合えない、とおっしゃるケースもあります。確かに、悪意ではなく「良かれと思って」伝えられたメッセージは、子どもとしては受け取らないわけにはいかないでしょう。
しかし、だからこそ、親の「良かれと思って」は有害なのです。逆説的ですが、悪意を向けられることの方が、むしろ、拒絶できる分だけ害は少ないのです。
喩えて言えば、見るからに腐った食べ物は、そもそも食べようとはしないので、結果的に有害なことにはならないのに対し、「あなたのために一生懸命作りました」と提供された料理にもし少量の毒が混入していたとしたら、こちらの方はしっかり食べてしまうので、体内に毒が回ってしまうことになるでしょう。ですから「良かれと思って」と提供された場合にこそ、より注意が必要になるのです。つまり問題は、親の意図が善意であるか悪意であるかではなく、親が「良かれ」と思って向けてきた内容そのものが、熟慮された適切なものであったかどうか、それは子どもに合うものであったか否か、というところにあるのです。
トンビがタカから奪う
自分らしい生き方
先ほども論じた、親と子が思っているほど似通った性質ではない、ということが分かっていないと、問題が多々生じることになります。「トンビがタカを生む」になっている場合には、トンビにとって相応しい処世術が、タカには窮屈な制約になってしまうのです。例えば、親が人前に出るのが苦手な性質で、その子どもは人前に出て活躍することが向いている活発なタイプだった場合などでは、親は子どもに「あまり調子に乗るな」「もっと謙虚であれ」などというしつけをしてしまいがちです。
エンジンの小さな車にとっては、高速道路で飛ばして走ることはあまり得意でないのに対し、排気量の大きいエンジンの車は高速で運転する方が得意で、街中をノロノロ走ってばかりではかえって不調になってしまうでしょう。そういう不適合が起こらないためにも、親にはわが子を「未知なる他者」として見る前提が必要です。