景色を見たり、ただ周囲の音を聴いていたりするようなダウンタイムを、スマホを手にした私たちは失ってしまいました。スマホを手に取るときには、様々な細切れのタスクを反射的に追いかけてしまっています。

1人でSNSを見る時間は
孤独とはまったく別物

「マルチタスクじゃなくて、ずっとSNS(あるいは動画)に没頭しているとき、私は孤独を感じる」などと反論したくなるかもしれません。

 しかし、そもそも本記事の「孤独」概念は、複数の自分間での対話をもたらすものとして定義されており、SNSや動画に浸りきることは、自己対話に必要な注意を分散してしまいかねず、孤独からほど遠いのではないでしょうか。

 反論の文章にある「孤独」は、むしろアーレントの言う「寂しさ」を指しているように思えます(編集部注/哲学者のハンナ・アーレントは、「1人であること」を、孤立、孤独、寂しさに分類している。孤立は、何かを成し遂げるために必要な、誰にも邪魔されずにいる状態。孤独は、心静かに自分自身と対話するように「思考」している状態。寂しさは、人に囲まれているのに自分はたった1人だと感じ、他者を依存的に求めてしまう状態)。

「私はSNSで自分と向き合い、自分の新たな面を知ることがある」と反論する人がいるかもしれません。

 しかし、SNSやゲームなどのオンライン生活を通じて自分と向き合い、自分を発見し、理解しようとするとき、私たちは、知らず知らずのうちにその場で暗黙に期待されている役割に合わせてしまうところがあります。

 タークルが指摘するように、そもそも私たちは、他人の目にさらされると、他人に合わせた自己(他人が期待する自己)へと無意識に調整してしまいます。

 そこに「スマホ」という、いつでも私たちと一緒にいるメディアが加わると、ちょっとした出来事もシェアし、「いいね」し合えるので、事情は複雑になります。私たちは、いつでもどこでも誰といても、常に膨大な他人の視線に自分をさらし続け、静かに自分に対峙する機会を逃しているかもしれないのです。

「自分らしさ」さえも
SNSに求める時代になった

 自分と対話するために、いろいろな言葉や写真の流れに目を留めて「いいね」する。自分と対話するために、自分の言葉や姿を不特定多数に見せる。自己対話の機会すらソーシャルな環境で見つけようとするとき、私たちはいろいろなものを失っていくとタークルは考えていました。