だが、全国抑留者補償協議会(全抑協)から出版された日本語訳の単行本には、原文にない「更に軍将兵、一般日本人の本国送還」の十六字が「然るべき取り扱い、給養、医療」の後に加筆されていた。
あってはならない歴史的文書の改竄。全抑協から出版前の原稿点検を頼まれた瀬島の行為だった。全抑協会長斎藤六郎(1995年12月、72歳で死亡)が言う。
「私は、原稿に間違ったところがあれば『注』を書いてほしいと瀬島さんに頼んだ。間違いの意味は年月日とか軍隊用語のことだった。それを瀬島さんは何を思ったのか、ジャリコーワでのワシレフスキーとの談判のくだりを書き直してしまった。ちょうど私がモスクワに出張している時、瀬島さんから(全抑協の)事務局に原稿が返ってきて、事情を知らない事務局がそのまま印刷会社に渡した。瀬島さんがそれほど手の込んだ加筆をしているとは知らなかった」
私たちの取材に対し瀬島はこう答えた。
「斎藤君が本を印刷に回す前に、事実と違うところや、まずいところは手を入れてくれと向こうから言ってきた。ワシレフスキーの電文に手を入れたのは確かだ。ジャリコーワの会談ではソ連側の通訳が関東軍の言い分を的確に翻訳せず、居留民や将兵を早く日本に帰せ、と要請した事実が電文に入っていなかった。事実と異なるため手を入れた」
明確に打ち出されていた
「日本軍民の満州残留希望」
「会見を御願ひせし処御同意下され難有存じます 当軍の武装解除も全般的には順調に進展し又各種施設等も逐次貴軍に引き継ぐ事を得 何となく先づ重荷を降した様な感じが致します」
ロシアの公文書館で見つかった関東軍文書「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」の冒頭にはそう書かれていた。
ジャリコーワでの「停戦交渉」から10日後の1945年8月29日付。作戦班長の草地貞吾や瀬島龍三らが作成したソ連軍への陳情書だ。瀬島の筆跡に酷似した約1500字のこの文書にはシベリア抑留の謎を解くカギが潜んでいる。
関東軍は文中で「当然貴軍に於て御計画あることと存じまするが」と断った上で、ワシレフスキーに関東軍将兵の「処置」をこう要望している。