「そりゃ天下取るわけだ」…自家製薬まで作った武将と病に倒れた武将の決定的違い
仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。待望の続編『リーダーは世界史に学べ』(ダイヤモンド社)では、世界史のリーダー35人が、迷える現代のリーダーに【決断力】【洞察力】【育成力】【人間力】【健康力】という5つの力を高めるヒントを伝授する。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

【徳川家康は日本初のスポーツマン?】現代人が学ぶべき究極の自己管理術Photo: Adobe Stock
徳川家康(1542~1616年)は、言わずと知れた戦国大名、江戸幕府の創始者。三河国(愛知東部)の小大名として生まれ、幼少期から青年期は隣国の織田家・今川家の人質として過ごした桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が討たれた後、今川家から独立を果たし、織田信長と同盟を結ぶ。その後は、東の武田家との戦いに集中し、武田家滅亡により勢力を拡大した。信長の死後、一時は豊臣秀吉と対立。秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた小牧・長久手の戦い(1584年)では、互角の戦いをするも後に服従し、豊臣政権の重臣として秀吉の天下統一を助ける。秀吉の死後、石田三成と対立した関ヶ原の戦い(1600年)に勝利し、江戸幕府を創設。将軍・大御所として幕府の制度や現在に通じる江戸のインフラを整備するとともに、晩年には大坂の陣(1614~15年)で豊臣家を滅ぼし、265年にわたる江戸時代の礎を築く

勝利の鍵は「健康」にあり

徳川家康は、武田信玄・上杉謙信・豊臣秀吉など、多くの戦国武将が志なかばで病に倒れたのを見ていました。

それだけに、勝利をつかむためには、健康であり続けることが重要だと考えていたと思います。

武将にして、日本初のスポーツマン?

そのため家康は、暴飲・暴食を避け、さまざまな健康管理をしていました。

何より、率先して体を動かすことをつねとしていたのです。家康は日本史上、健康増進のためにスポーツをしていた初めての人物ともいえるかもしれません。

趣味と実益を兼ねた「将軍流アクティビティ」

連日のように剣・槍・弓・馬・鉄砲など、武士としての稽古に励むとともに、水泳にも力を入れていました。

また、鷹狩りを好んでいたことも、よく知られています。

朝早く山野に行って鷹を飛ばし、獲物を探して駆け巡るのです。現代のゴルフに相当するようなレジャーであり、山野を駆け巡るなかでアップダウンのある適度な運動ともなります。

もう一つの顔は「医学の探求者」

家康は75歳で亡くなるという、当時としては長寿でしたが、70歳をすぎた晩年も、たびたび鷹狩りに出かけました。

また、家康は医学に深い関心を寄せ、自らの生活にとり込んでいました。

中国から医学書をとり寄せて読んだり、自分に仕える医師に教えを請うたりして、医学の知識を蓄えていたのです。

医師も舌を巻く「自家製良薬」

家康は、医師も顔負けの調剤道具一式をもっていて、自ら薬を調合していました。

調合した薬を自分で使うこともあれば、側近や大名が風邪をひいたり、腹をこわしたりしたときには、症状に応じて調合した薬を与えていたほど精通していたのです。