甲子園やプロ野球の夢破れた
球児たちが直面する試練

 生徒が強豪校に入学すると、競争が激しすぎて3年間ベンチ入りもできずにスタンドで応援し、野球に専念していたせいで勉強もあまりできておらず、指導者の口利きでやはり野球に力を入れている私立大学に入学することになる。そこでも高校と同じような生活を繰り返し、一般社会に出る準備もままならない――。

 これはやや極端な描写だが、1人ひとりの人生の中心に「野球」が置かれてしまうと、「甲子園に出る」とか「プロ野球選手になる」という夢が叶わなかったときに、自分の人生を取り戻すためには大変な労力とガッツが必要になる。私の知るかぎり、それでも頑張って生き抜こうとする人が多いが、なかには犯罪に手を染めてしまう者もいる。

 近年の野球界に衝撃を与えたのは、2017年に夏の甲子園で優勝したチームの主将が2019年に強盗致傷の容疑で逮捕され、懲役5年の実刑判決を受けたことである。

 この人物は高校卒業後に駒澤大学の野球部に入部したが、「先輩に深夜にコンクリート上で正座させられ、たばこの火で根性焼きをされた」などのことがあり退部。大学も退学し、実家で引きこもっていたときに、旧友から「人のいない家からお金を運ぶ仕事がある」と誘われ、犯行に及んだという。

 控訴審では社会福祉士が証人として出廷し、被告の「性格の弱さ」を克服するために心理カウンセリングを受けさせ、比叡山延暦寺で修行させるなど、「自分と向き合う」取り組みが強調された。しかし被告が謝罪文やアルバイトで貯めた弁償金5万円を被害者に渡そうとしたところ、受け取りを拒否されている。

 こういった事例にも、高校野球のもつ文化性の良くない一端が現れていると考えざるをえない。他者に被害を与えてしまったときに、「比叡山で修行する」ことが被害者に反省と受け取ってもらえるとする思考は、高校野球的な「野球に一意専心することで何かが得られる」という誤った観念の暴走なのではないだろうか。

 現代の「甲子園」を中心とする高校野球文化は、実は1人ひとりの思想にとどまらず、「身体」まで規制している。そのことが象徴的に表れているのが、バットの重さに関するルールである。