東海道新幹線の成功を受け、1970年に成立した全国新幹線鉄道整備法のもと、建設中の山陽新幹線に続く路線として、翌1971年1月に東北新幹線(東京~盛岡)、上越新幹線(東京~新潟)、成田新幹線(1987年計画失効)の基本計画を公示した。

 東北・上越新幹線計画は同年10月に工事実施計画が認可され、11月に沿線住民説明会を実施するが、東京都、埼玉県では反対論が噴出した。当初は懐疑的に見られていた東海道新幹線が成功すると新幹線に対する期待が高まり、建設が加速したと語られがちだが、実際はもう少し複雑だ。

 確かに地方は新幹線を歓迎したが、利用増とともに運行本数が増加すると、都市部では市街地を分断して日照を害する上、騒音や振動をまき散らすメリットのない「公害」と捉えられるようになった。1970年には新幹線の運行差止を請求する「名古屋新幹線訴訟」が起こされるなど、全国で抗議運動、反対運動が巻き起こった。

東北新幹線の「見返り」に
通勤新線の併設を提示

 そうした中、市街地を通過する東北新幹線が歓迎されるはずがなかった。当初は大宮以南の与野~戸田間を地下トンネルで通過する計画だったが、1973年3月に想定以上の軟弱地盤を理由に同区間を高架線へと変更する方針を打ち出したことで、反対論は更に燃え上がった。

 そこで沿線自治体、住民に対して運輸省と国鉄が提示した「見返り」が通勤新線の併設である。大宮以南は東京方面と新宿方面の線路を並行して別々に建設する計画だったが、東京方面の線路と通勤新線を高架で併設し、沿線の交通利便性を向上させるという案だった。

 この結果、新宿方面の線路を並行して設置できなくなったが、少なくとも北陸新幹線が開業するまでは東京方面の線路だけで足りるということで、増線時は東北貨物線(現在は湘南新宿ラインが走行する線路)を撤去して転用する計画とした。

 とはいえ、国鉄も通勤新線を嫌々建設したわけではない。高度成長は終わりを迎えようとしていたが、大宮以北のベッドタウン化は加速していた。1970年の東北本線(宇都宮線)の混雑率は200%を超えており、このままでは将来的に300%を超えると試算されていた。