(3)の生年月日は、めぐみさんの誕生日である。拉致被害者たちは、誕生日については、さほど秘密保持を求められていなかった。招待所(編集部注/拉致被害者や工作員を住まわせる施設)でも拉致被害者の誕生日には、担当の課長や指導員など複数の人が集まって小規模ながらパーティーが開かれていた。
したがって「死亡確認書」の(1)と(3)は、横田めぐみさんが「入院」したとされる当時に、対外情報調査部から平壌49号予防院に伝えられたとしてもおかしくはない。
最高機密「招待所の住所」を
なぜ普通の病院が知っているのか?
しかし、(5)の住所は事情が違う。「死亡確認書」の住所欄には入院するまでめぐみさんが暮らしていたところ、すなわちそのとき私たちが住んでいた招待所の位置がそのまま記入されている。
49号予防院は、秘密警察である国家安全保衛部(当時)の管轄下にあったが、一般市民からも患者を受け入れていた。
一方、めぐみさんを含め私たちは、北朝鮮の中枢である朝鮮労働党中央委員会直属の対外情報調査部によって秘密裏に管理されており、その所在情報は最高機密に属する。よって私たち自身も子どもたちの学校などに出す書類の住所欄には、指導員によって教えられた平壌市内の架空の住所を書き込むように指示されていた。
こういう状態で、対外情報調査部が一般民間人とも接触のある49号予防院に招待所の住所をそのまま伝えることは経験上、絶対にありえない。
「死亡確認書」にこの住所が書き込まれたのは、入院したとされる1994年段階ではなく、北朝鮮側の対日交渉における拉致問題対策が本格化したときであり、目的は一連の「証拠物」の信憑性を高めるためだったと考えられる。
というのも、大陽里の招待所地区は、日朝首脳会談が開かれる2年前の2000年には廃止されて建物だけになっていた。機密の対象ではなくなったこの地区を、北朝鮮当局は、「証拠物」として捏造工作に利用することにし、めぐみさんの「死亡確認書」によって招待所の位置を示したうえで、2002年9月末に北朝鮮を訪れた日本の事実調査チームに、この地区を「拉致被害者の関連施設」として視察させたのだ。