アメリカは林復斎を「厳粛で控えめな人物」と評した。林は、調印に浮かれて満面の笑みで握手などしていない。そんな内容ではなかったからである。

 そして嘉永6(1853)年の黒船来航以後、幕府の開国方針や政治手法に反発する勢力が生まれ、やがて発言力を持って幕府一強体制が崩れていく。

物価高に徳川幕府はどう対応した?
「五品江戸廻送令」とは

 いわば「多党化」が進むわけだが、その要因は開国だけではない。ボディーブローのように効いたのは物価の高騰である。物価高は幕府に対する信頼を失わせた。

 物価高騰の原因には、たとえば金の流出があった。

 嘉永7(1854)年の日米和親条約調印後、通貨のレートについて交渉が行なわれ、1ドル銀貨1枚=1分銀で落ち着いた。ところがその後日本にやってきたアメリカ駐日米総領事のハリスはこれを認めず、1ドル銀貨1枚=1分銀3枚というレートになった。

 つまり、日本で銀を金に換え、その金を海外で銀に戻せば、なんと両替だけで3倍の利益を生む。

 幕府は対策として、金の含有量を3分の1にした万延小判を発行した。これで金の流出は止まったが、市中に出た通貨量は3倍に。激烈なインフレになり、一説に江戸の物価は短期間に5倍になったという。

 幕末は、とにかく物価が高騰している。開国によって生糸や蝋、お茶や昆布や干魚などが輸出され、そのせいで国内では品薄となって価格が高騰。米価もすさまじい値上げラッシュだった。

 元治元(1864)年米は1石あたり200匁。それが2年後の慶応2(1866)年には1300匁。わずか2年間で6倍強の値上がりである。

 幕府はむろん、手をこまねいていたわけではない。

 レート問題では、結果は出せなかったものの使節をアメリカに送るなど必死の交渉を重ねた。物価高への具体的な対策としては、たとえば「五品江戸廻送令」がある。

 地方の商人たちは江戸を通さず、横浜など外国人居留地で外国と直接取引をした。その方が儲かるからである。