なぜ平和の使徒ガンディーは「裏切り者」と呼ばれたのか? 凶弾に倒れた悲劇の真相
悩んだら歴史に相談せよ!】好評を博した『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)の著者で、歴史に精通した経営コンサルタントが、今度は舞台を世界へと広げた。新刊リーダーは世界史に学べ(ダイヤモンド社)では、チャーチル、ナポレオン、ガンディー、孔明、ダ・ヴィンチなど、世界史に名を刻む35人の言葉を手がかりに、現代のビジネスリーダーが身につけるべき「決断力」「洞察力」「育成力」「人間力」「健康力」と5つの力を磨く方法を解説。監修は、世界史研究の第一人者である東京大学・羽田 正名誉教授。最新の「グローバル・ヒストリー」の視点を踏まえ、従来の枠にとらわれないリーダー像を提示する。どのエピソードも数分で読める構成ながら、「正論が通じない相手への対応法」「部下の才能を見抜き、育てる術」「孤立したときに持つべき覚悟」など、現場で直面する課題に直結する解決策が満載。まるで歴史上の偉人たちが直接語りかけてくるかのような実用性と説得力にあふれた“リーダーのための知恵の宝庫だ。

【まさか…】インド独立の父ガンディーを殺害した犯人の正体と、あまりに悲しいその動機Photo: Adobe Stock

宗教の対立に最後まで苦しんだ
ガンディーの最期

マハトマ・ガンディー(1869~1948年)は、インドの宗教家であり政治指導者。イギリスの支配下にあったインドで地方有力者の家に生まれ、イギリスへの留学を経て弁護士資格を取得する。南アフリカで弁護士として活動した後、インドに帰国し、独立運動を指導することとなる。ガンディーは、イギリスの塩の専売制度に抗議する「塩の行進」やイギリス製品の不買運動などを展開し、「非暴力・不服従」の理念を掲げてインドの独立を目指す。第二次世界大戦後、国力が衰えたイギリスはインドの独立を承認するが、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立により、1947年にインドとパキスタンが分離・独立。この分裂時に紛争が発生したが、ガンディーは断食を通じて平和を訴える。しかし、イスラム教徒との融和に反発した過激なヒンドゥー教徒の若者に暗殺される。ガンディーの「非暴力・不服従」の理念は、黒人解放運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師をはじめ、その後の多くの指導者に大きな影響を与えている。

終わりなき悲劇の始まり

1947年、長きにわたる闘争の末にインドがイギリスからの独立を果たしたとき、マハトマ・ガンディーの悲願は一見、成就したかのように見えました。

インドとパキスタンの間では、カシミール地方の領有を巡って武力衝突が勃発。これが、現在に至るまで続く「カシミール紛争」の始まりです。

平和への最後の訴え

ガンディーはこの事態に深く心を痛め、平和的解決を強く訴えました。

一時は、自らインドの総督に就任して事態の鎮静化を図ろうと考え、暴力から逃れてきた人々を保護するために政府の施設の活用を提案するなど、全力を尽くしました。

凶弾に倒れた平和の使徒

しかし、戦争状態に突入したばかりのインド政府は、ガンディーの提案を非現実的であるとして退けたのです。

そして、1948年1月30日――日課であった祈りの場に向かう途中、ヒンドゥー教原理主義者の青年によってガンディーは銃撃され、命を落としました。

果たされなかった夢

彼が命をかけて訴えていたのは、宗教間の融和でしたが、その姿勢は、当時の一部の過激な人々から「裏切り」と受けとられたのです。

ガンディーが夢見た統一されたインドは、彼の生涯のうちには実現することはありませんでした。

遺された平和の種

ガンディーの死は、一つの時代の終わりであると同時に、新たな時代の始まりでもありました。

彼の肉体は滅びても、「非暴力・不服従(サティヤーグラハ)」という思想は、希望の種として世界中に蒔かれたのです。

非暴力という名の世界遺産

その思想は海を越え、アメリカの公民権運動を率いたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師や、南アフリカのアパルトヘイト撤廃に尽力したネルソン・マンデラ大統領など、後の時代の偉大な指導者たちに受け継がれました。

彼らはガンディーの哲学を自らの闘いの礎とし、歴史を動かしていったのです。

現代に響くガンディーの問い

今なお世界各地で絶えない紛争や対立は、私たちに「真の強さとは何か」を問いかけます。

憎しみの連鎖を断ち切り、対話と寛容の精神を貫こうとしたガンディーの生涯は、分断が進む現代社会を生きる私たちにとって、今なお重要な道しるべであり続けています。

※本稿は『リーダーは世界史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。