母親は加害者が子どもだった頃の思い出や成長過程の様子を具体的に語ることができます。しかし父親の場合、子どもが幼い頃は仕事に追われ、子どもが起きる前に家を出て、子どもが寝てから帰宅する、といった生活を送っていた人が大勢います。
そのためどうしても子育てなどのケア労働への関わりが薄く、具体的なエピソードを語ることができません。
そのかわり、父親の関心は「世間からどう思われるのか」や「息子は今後仕事に復帰できるのか」といった社会的な側面に向けられがちです。このような状況から、「家族会に来る意味があるのか?」「ここで息子が性犯罪をしない方法を教えてもらえるのか?」といった本質から逸れた発言が出てきたり、最終的に家族会への参加をやめてしまったりするケースが少なくありません。
「母親の会」は、とてもエモーショナルです。涙を流す方も大勢いますし、ひとつのテーマに対して時間が足りないほど話が続きます。ミーティングが終わったあとも、皆が連れ立ってお茶を飲みに行くなどのフェローシップもあります。
対して「父親の会」では参加者の口は重く、沈黙が続き、時系列の話に終始し、すぐに話題が尽きてしまいます。
自分の話をできない、なかなか自分の感情を表に出さない、自分の弱みを明かせない、女性に比べて感情豊かなコミュニケーションが乏しい…「父親の会」の参加者たちに見られるこのような特徴は、日本人男性一般に広く見られる傾向です。
男らしさを履き違えて
母の責任を追及する人も
そこにあるのは、「男らしさ」への過剰適応です。仕事で成果を収め、出世して、お金を稼いで、家族を守ってこそ一人前。男は常に強くあり、勝ち続けなければならない。そのような男らしさを体現するために、幼い頃から「男は泣くな」「我慢しろ」など弱みや痛みを否定される経験を重ねてきた男性も多いはずです。
そして、その苦しみや生きづらさを解消するべく、自分よりも立場の弱い人間を差別したり、暴力で支配したりする…これが性暴力のひとつの本質です。







