現在のデジタル/バーチャルネイティブの人たちが、いざ死に面したときの衝撃は、上の世代よりも強いのかもしれません。

フィクションの世界ですら
死の心構えができなくなった

 哲学者シラーは「悲劇は、現実の悲しみに対峙する力を養うための予行練習としてある」と言いました。

 シラーの時代は、前もって心を守った状態で悲嘆と対峙できるのが、悲劇の価値の1つでした。

 それに比べれば、現代の日本社会は比較的安全で、身の危険を感じることは少ないです。

 そうすると悲劇という虚構の不幸ですら、真に迫って感じられてしまって、心の痛みを感じるのだと思います。だから「この作品ではこの程度の不幸が起きるよ」と前もって明らかにしてもらうことで、その痛みから心を守ることができる。

 タイトルに「余命」と書いてあれば「ああ、この登場人物は死ぬんだ」という心の準備をしてから観始められる。

 いわば不幸に対して二重の予防線を張っているのです。

 フィクションの中の死すらも重たくて、「死ぬよ、死ぬよ、死ぬからね」と言われながら観ていくことで、「そうか、死ぬんだな」という心構えをしているのかもしれません。

余命もの作品から
抜け落ちた死のリアル

 そもそも余命ものというジャンルが可能になった理由として、医療技術の発展があると考えられます。

 それまでは正確な余命がわからなかった。しかし医療が発達して「これくらいの病状なら、あと何カ月」というように予測が可能になりました。

 人生の残りの時間を物差しで測れるようになり、それで生まれた泣ける消費の1ジャンルが「余命もの」だと言えます。

 現代の「余命もの」には、ある共通点があります。

 それは、死を迎えるのがたいてい若者であるということです。10代、20代、せいぜい30代、つまり「まだ生きられるはずの人」が、若くして亡くなる。

 昔ならば、若者の死はもっと日常的なものでした。

 結核のような感染症も多く、医療の限界もありました。けれど現代では、若者の死は「起きにくいこと」になりつつあります。