医師と向き合う悲しい顔の女性写真はイメージです Photo:PIXTA

10代や20代の若者たちが、限られた時間のなかで懸命に生きる姿を描いた「余命もの」の映像作品は、いまや定番ジャンルのひとつとなっている。しかし、その中で描かれる“美しいまま死んでいく若者たち”の姿には、現代社会が目を背けている「死の現実」が欠けているという。死と向き合うことがなくなった私たちは、いったい何を見失っているのだろうか。※本稿は、石津智大『泣ける消費 人はモノではなく「感情」を買っている』(サンマーク出版)の一部を抜粋・編集したものです。

別れに対する心の準備が
しにくい現代

 現代日本では「死」というものにフタをして、触れずに済むようにしています。

 看取りも、亡くなったときの処置も病院が全部やってくれて、棺に納めたあとのことも葬儀会社に全部任せられる。そのことが生と死を必要以上に断絶してしまっているように、わたしは思います。

 でも、かつては自宅で看取ることが多かったし、湯灌(遺体をお湯で洗い清めること)なども家族が行うものでした。

 死はもっと生活のそばにあったのです。

 それは「別れ」もよく似ています。

 わたしは合計で10年あまり、ロンドンにいました。ロンドンというのは「常に人が来る街であり、出ていく街でもある」と言われています。留学・研究・駐在などで人の出入りが激しくて、新しく来た人と友達になっても、2~3年でどこかに行ってしまう。

 そうすると、フェアウェル(さよなら)パーティーが頻繁に開かれる。わたしもそのパーティーに何回も出ました。

 フェアウェルパーティーでは最後に必ず“Keep in touch!”(連絡を取り合おうね)と言うのが決まり文句になっています。