「機関砲の銃撃をはずしてしまった。連射はできない。眼下の北九州市民の命を護るため、このままB-29を行かせるわけにはいかない」

 咄嗟にそう判断した「屠龍」前席に座る操縦士、野辺重夫軍曹は、複座の後部座席に座る相棒、高木伝蔵兵長に声をかけた。

「ゆくぞっ、高木!」

「了解です、野辺軍曹!」

 フルスロットルの状態にレバーを入れ、双発エンジンの推進力を限界までふりしぼった日本陸軍の小さな複座戦闘機が、米軍が日本の北九州へ刺客として放った巨大な“超空の要塞”へと突っ込み、両機ともに空中で砕け散った。

 野辺と高木。2人の搭乗員は命を懸けたこの体当たりの結末を知ることはできたのだろうか?

 体当たりを受けたB-29は空中で爆発し炎上。砕けた機体の破片が後続のB-29に衝突。2機のB-29が八幡の地上へと墜落していったことを……。

 1944(昭和19)年8月20日。

 これが初となるB-29への日本戦闘機の「体当たり=特攻」だと戦史には記録されている。

 この特攻で2人の若者が北九州上空で命を散らした。初の特攻隊「神風特別攻撃隊」が編成され、出撃する2カ月前のことだった。

原爆投下のシミュレーションで
罪のない学生たち100人の命を奪う

 1945(昭和20)年7月29日午前8時半過ぎ。

 旧制京都市立第二商業学校の生徒たちが働く舞鶴海軍工廠の施設をB-29が急襲した。

 このとき、B-29が投下したのは、通称「ファットマン」と呼ばれた長崎型原爆と同じ型で、外装がオレンジ色に塗装された模擬原爆(通称「パンプキン」=カボチャのような外観から)だった。

 8月6日に広島、9日に長崎に原爆を投下する直前。米軍は虎視眈々と“本番準備”を進めていたのだ。

 そのテストともいえる空襲を京都の舞鶴海軍工廠をターゲットに行ったのだ。

 この模擬原爆の投下によって、勤労中の京都二商の生徒を含む約100人の命が奪われている。

 米軍による模擬原爆投下の事実は戦後、長い期間伏せられていた。