だが、原爆投下直前になって、その候補地が急遽、変更されたといわれている。

 なぜか?

 広島への原爆投下による影響で、北九州上空には、まだ、もやがかかっていたため視界不良だったという説もあるが、北九州防衛のために配備されていた、この下関の「屠龍」精鋭部隊が迎撃のために控えていたため、ともいわれているのだ。

計17発もの原爆が
降り注ぐ未来もありえた

 ノンフィクション『日本陸軍 試作機物語 名整備隊長が綴る自伝的陸軍航空技術史』(潮書房光人社)の著者、刈谷正意は陸軍航空士官学校卒の航空エンジニアで、「屠龍」操縦士の樫出勇と同期だった。

 この書の「屠龍」を解説する項のなかでこんな記述がある。

「屠龍」が《俄然名を上げたのは、B29と対戦した小月基地の飛行第四戦隊と松戸の飛行第五三戦隊の働きだった。筆者と同期の樫出大尉は、北九州へのB29初空襲以来、大量二九機の撃墜王だった》と書かれている。

 当初、標的委員会のなかで有力な候補地のひとつとして挙げられていた「小倉」がターゲットのなかからはずされたその理由は……。

「双発エンジンで高高度にまで達し、37ミリ機関砲でくらいつき、銃撃が間に合わなければ体当たりも辞さない。そんな『屠龍』を駆る精鋭たちが、この小倉周辺には潜んでいる……」

 グローヴスら米軍幹部、そして原爆を運んだB-29搭乗員の頭のなかで、これまでの空襲で辛酸をなめてきた「屠龍」による迎撃、そして“決死の体当たり”がよぎったことだろう。

 もし、1万メートル上空で、B-29が原爆を積んだまま「屠龍」に体当たりされたら……と。

 8月9日の投下が急遽、長崎へ変更された有力な説のひとつとされている。

 ノーラン監督が史実に忠実に描いた映画『オッペンハイマー』のワンシーンにそれを裏付けるヒントがあるように思えた。

 米陸軍特殊兵器計画本部長として核兵器開発を指揮していたグローヴスは、1945(昭和20)年8月から、この年の末にかけて、計17発の原爆を開発し、日本へ投下する計画を練っていたという。