街に求められているのは利便性と機能性
ただ、こうも思う。そもそも、ある世代より下の人たちは、街という物理空間に特定の文化を背負わせるという発想が、中高年以上の世代ほど強くないのではないか。
かつての渋谷も新宿も下北沢も、ある志向・嗜好を持ち合わせた人たちが集まり、そのセンスや熱量やグルーヴが堆積することで、固有の文化的色合いが形成されてきた。この3都市に限らず、顔(キャラクター)の立った街というものは例外なくそうだ。
しかし今や、ある志向・嗜好を持ち合わせた人たちが集まる場所は、必ずしも物理空間でなくともよくなった。ネット上の多種多様なコミュニティや各種SNSが、「場」を形成しているからだ。情報交換も、交流も、推し活も、ある種の経済活動も、ほぼそこで完結できる。ZOOMやチャット、翻訳アプリの存在は、居住地はもちろん言語の壁すら超えてコミュニケーションを捗らせた。
もしかすると、世代は関係なく、単に「多数派の価値観」が変化しただけなのかもしれない。
かつて街に期待されていたのは文化的固有性だった。しかし、いま期待されているのは利便性と機能性だ。そのことは、再開発をどちらかといえば好意的に捉えている人の声を拾うと見えてくる。
【渋谷】「スタートアップやIT企業が集まりビジネスが活性化した」「観光客用のショッピング施設や食事施設が充実した」
【下北沢】「駅前が整理されて全方向に移動しやすくなった」「駅がバリアフリー化された」「一見さんでも入りやすいおしゃれなカフェなどが増えた」
すべて、利便性と機能性に回収されるタイプのメリットだ。
3都市の再開発に眉をひそめている人たちの職業を、筆者の観測範囲内で思いつくまま挙げてみる。新宿なら、出版、新聞、映画、大学関係者が多い。渋谷や下北沢になると、そこに演劇、音楽、デザイン、ファッション関係者が混じってくる。
ひとことで言えば、「自分は文化や知に仕(つかえ)えている」という意識が高い人たちだ。逆に言えば、文化や知に仕えている意識がことさら高くない人は、街という物理空間にそこまで文化を背負わせない。利便性の促進と引き換えに、文化的退色を抵抗なく受け入れる。
あくまで体感でしかないが、風向きとして、今は後者のほうが優勢だ。







