「不便」の意味
一方で、再開発によって不便になった、という声も聞く。
以前なら目をつぶってでも行けた、改札から目的の店までの道が、コンコースの改装や商業ビルの建設によって阻まれ、あるいは変更され、到着までに時間がかかるようになった。あるいは、使い勝手の良かった駅前の立ち食い蕎麦屋がなくなった、等。
まあ、わかる。
ただ、その駅や街を最近利用し始めた学生や、初めて訪れた観光客にとって、以前の姿など知ったことではない。再開発後の姿こそが、本来の姿だ。改札から某店までの所要時間も、最初からそういうものとして了解している。
それに不便というが、再開発というのは大抵、施設のバリアフリー化とセットになっている。つまり、再開発後は総じて車椅子やベビーカー利用者に優しくなった。この点だけを言うなら、不便というよりむしろ便利になったはず。
だから、彼らの言う「不便」の真意は、こうだ。
「俺の知ってる渋谷(新宿・下北沢)と違う」
……恥ずかしながら、筆者も口にしたことがある。
カーナビとラッダイト運動
この感情を、もう少し腑分けしてみる。
たぶん、苛立ち焦っているのだ。数十年にもわたって通いつめることで得た街の知識が、街自体が作り変わることによって、使えなくなりつつあることに。20年前に大枚はたいて買ったカーナビが、今ではさっぱり使えなくなってしまった悲哀のごとし。
迷路のような路地、初見では絶対に見つけられない隠れ家的名店、複雑怪奇な駅の構造。それらをすべて頭に入れているという(目下の人間に発揮できる)優位性が、再開発によってリセットされてしまう。この屈辱的なゲームチェンジが、どうも気に入らない。
19世紀イギリスのラッダイト運動を連想する。産業革命によって機械が導入されると、長い時間をかけて技術を習得した熟練工たちの地位が、あっという間に低下した。生産の効率化による人員削減で失職者が増加。怒りと悲しみに駆られた彼らは、忌々しい機械を破壊して回った。
今は生成AIが似たような事態を生じさせている。文章やイラストが無料もしくは安価、かつ短時間で大量にアウトプットできるようになり、それでお金をもらっていたライターやイラストレーターの商売が侵食されはじめた。彼らは19世紀の熟練工のように反発し、生成AIを創作に使うべきではない理由を並べ立てる。
しかし、物心ついた頃から生成AIを当たり前に使う世代にしてみれば、そんな事情など(再開発前の駅がどうだったかと同じく)知ったことではない。機械によって誰もが効率的に生産活動を行えるのと同じく、生成AIを使って誰もが無料で文章やイラストを得られる。これが若年世代にとってのデフォルトだ。







