接待が横行する世界は「ヘドロ」!?ビジネスを「清流」にしたい鳥羽氏

 鳥羽氏にとっての「正道」とは、商品の品質やアイデアに全精力を注ぐことだ。

 さらに、彼は接待が横行する世界を「ヘドロ」と呼び、自分は「清流に棲む鮎になりたい」と願った。おそらく彼もまた、食事中も仕事のことしか考えていない経営者だったのだろう。

《私がこの仕事を始めたころの喫茶業界は――すべてとは言わないが――まさにヘドロのような世界だった》(同書)

 だからこそ、仕事のふりをして快楽をむさぼる「邪道」が生理的に許せなかったのではないだろうか。

《こうしたことを言うと、「そのようなきれいごとだけで世の中は渡っていけないんじゃないですか」と言う人もいた。しかしながら、上澄みだけの世界もあるわけで、私はこれからも常にきれいなものだけを見て生きていこうと思っている。(中略)清の部分だけに生きていく。自分がそうした生き方を心から願うのであれば、それは可能なことだと思う》 (同書)

 なぜ鳥羽氏は「きれいごと」と言われて反発したのか。

 それは彼にとって「清流に生きる」という選択が、甘い夢ではなく、保険も近道も使わずに品質だけで勝負する、最も過酷な「真剣勝負」だったからだ。

 接待でなんとかしようというのは、日本人にとって「あるある」、つまりよくあることだろう。しかし、「接待を避ける仕事のやり方はただのきれいごと」と笑う人々は、泥の中に逃げ込んでいるだけかもしれない。泥の中なら、品質が悪くても接待でごまかせる。

 しかし清流では全てが透けて見え、品質が悪ければ即座に死を意味する。

  鳥羽氏の言葉は、鋭い刃物のように私たちに突き刺さる。接待という「邪道」に頼るのか、品質という「正道」で戦うのか。 政府の税制がどうあれ、私たち一人ひとりがビジネスを「ヘドロ」にするか「清流」にするか――。その選択だけが問われているのだ。

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