かつてプロレスといえば文字通り国民的娯楽であり、力道山は戦後の英雄だった。新日本でも長州力、藤波辰爾といった時代のスターを輩出し、1990年代には、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の「闘魂三銃士」が活躍。四大ドームツアーを開催した97年には過去最高の売上高39億円をたたき出した。
ところがその翌年、東京ドームで7万人を集客した猪木の引退試合をピークに、新日本のパワーは徐々に低下、プロレス界全体も暗く長いトンネルへと迷い込む。
時は2000年代、「K-1」や「PRIDE」といった総合格闘技が一大ブームを巻き起こし、引き締まった体のカッコいい選手を一目見ようと、多くの若者がビッグマッチに詰め掛けた。
それに対し、プロレスは「ダサい」「古くさい」と敬遠されて人気は低迷。それに伴い業界全体も瓦解し始め、内部分裂を繰り返すようになる。
盟主だった新日本も例外ではなかった。数年間で社長が4人も交代するなど混乱し、そうしたごたごたに嫌気が差した主力選手やスタッフたちも次々と去っていった。
その揚げ句、組織は完全に機能不全に陥り、試合にも大きな影響を与えた。
「対戦カードが直前に変更されたり、試合が不透明な決着で終わったり。予定された試合をきっちり見せて、観客を満足させるという興行として当たり前のことができなくなった」(棚橋)
新日本がこうした危機にひんしてしまった背景には、過去の栄光に縛られ、“殿様商売”から抜け出せなかったことがある。
当時、多くの幹部やスタッフ、選手たちは、不振に陥った理由を「ゴールデンタイムでテレビ放送をしていないからだ」と考えた。自ら考え発信するといった努力を怠りながら、責任をマスメディアになすり付けていたわけだ。
その結果、既存ファンの足はますます遠のき、次世代のファンの開拓もままならないという悪循環に陥ってしまったのだ。
そうした新日本に転機が訪れたのは2005年、猪木が新日本の株式をオンラインゲーム会社のユークスに譲渡したことに始まる。倒産寸前だった新日本は、親しい取引先だったユークスに救済を求め、買収してもらった形だ。







