前ページの修氏の「軽自動車をめぐる動きは、いろいろあった。しかし、どっこい軽は生きている」。実は、筆者が「〈軽自動車不要論〉が出ては消えますよね?」と意地悪な質問をした際の返答だ。
軽自動車は日本独自の「国民車構想」から生まれ、小型で経済的な乗り物として定着した。が、その独自の規格(サイズ・排気量660cc以下・定員4名)と税制優遇が、時に「ガラパゴス」(海外では普及しない)と批判されてきた。鈴木修氏の経営者としての生涯は、軽自動車を守り抜くことだったといっても過言ではない。
鈴木修氏がスズキ(当時は鈴木自動車工業)の社長に就任したのは1978年6月。若干48歳だった。当時の日本は高度経済成長期。消費者もメーカーも「もっと大きなクルマへ」と駆り立てられ、軽自動車はジリ貧の状況だった。
スズキの社内も大荒れだった。軽ガソリンエンジンの排ガス対策で出遅れたこと、経営陣で鈴木一族が総倒れとなったことから、存亡の危機に瀕していた。そこで、鈴木宗家の婿養子だった修氏に急遽、社長のお鉢が回って来たのだ。
倒産寸前だった当時を修さんに回顧してもらうと、こう答えた。
「軽自動車が全く売れない時代、どうしたら売れる軽を出せるか、どうしたらスズキを潰さないようにできるか――。それが私の、経営者としての原点だったな」
パキスタン工場にて(1989年3月1日) Photo:Robert Nickelsberg/gettyimages







