日産のゴーン氏に
“勘ピューター”が働いた
修さんに「トップの条件」を聞いたこともある。「私心がない、自分のためにやらない」とすぐに答えた。
また別の時、スズキが日産自動車に軽をOEM供与していた時代の話を聞いた。当時は東銀座にあった日産本社に、カルロス・ゴーン氏を訪ねたものの、「どうも信頼しきれなかった」と“勘ピューター”が働いて、スズキと日産の提携がそれ以上広がることはなかったという。
繰り返しになるが、鈴木修氏の経営者としての生涯は、軽自動車を守り育てることだった。「軽自動車は、貧乏人の味方なんだ。税制だって『軽の恩典』ではなくて軽自動車をベースに考えるべきだ」と常に主張していた。
今や国内市場の3台に1台を占め、私たちの生活になくてはならない軽自動車。新興国・地域でも日本の軽をベースにモータリゼーションが進展した。
修さんが亡くなって1年のタイミングで、ガラパゴスだった軽が欧米で認められ始めたのは実に感慨深い。修さんもきっと草葉の陰でニンマリしていることだろう。








