現実に戻って悲嘆が押し寄せたのは翌日、弓弦さんと対面してからだった。
弓弦さんとは直前の8月、奥秩父で沢登りを楽しんだ。幼いころから父子でカヌーやスキーと駆け回ってきた。沢登りでもリードして道を見つけるようになった息子が頼もしかった。テントをはってたき火をした。隣り合って座り、火を見つめた。
3泊の沢登り旅の充実感の中、息子は東京へ、自分は大阪の自宅へ。電車で「またな」と別れた。それが最後になった。
帰国して葬儀を営んだ後、目覚めても起き上がれない日が続いた。息子のいない世界がそこにあるのが耐えられなかった。国語の非常勤講師の仕事を半年休職した。
「まあ、ええんちゃう」が口癖で、天衣無縫な子だった。
弓弦、おまえはどこへ行ったのか――。悲嘆のまっただ中で何度も問いかけた。
しのぶ会を開くと、友だち80人が集まって思い出を話してくれた。
「“爆食”で油そば店でいつも足し麺をしていた」「そばにいると受け入れてもらえている気がした」「優しいやつだった」……。
こんなに様々な顔があったのか。忘れないでほしい。追悼集を作ろう――。小中高大の友だちに呼びかけ、20人ほどの編集委員会を作った。大阪と東京で編集会議を10回以上重ねた。
死別遺族の分かち合いの会で
少しだけ気持ちが楽になった
中学高校と美術部で油絵を描き、バレー部でも活躍した弓弦。読書や映画が好きだった弓弦。大学で美術サークルや合気道部で活動した弓弦。写真や友人の追悼文、描いた絵などを盛り込んだ追悼集は厚さ1.7センチ、264ページにもなった。表紙は遺作となった油絵「熊野古道」にした。1000部刷り、三回忌に友人らに配った。
息子の命の証しが残せた。よかったと思う。一方で息子の人生に向き合うことで、自分を追い込んでしまった。悲しみは深まった。
支えになったのは、同じように子どもを亡くした人たちとの交流だった。兵庫県の「ゆりの会」という死別遺族の分かち合いの会を知り、妻と毎月通うようになった。







