鹿皮の海外への売り込みは難しく、主に国内で利用されたと伝えられていますが、開拓使はなんとしても輸出産品を作り出そうとエゾシカの産業化に取り組みました。ハムやソーセージの試作に続いて、缶詰産業の育成に本腰を入れます。新千歳空港近くの美々(びび)をはじめ、石狩、厚岸などに鹿肉缶詰製造所を作りました。

 札幌管内(美々と石狩)の缶詰製造所は1877年から本格的に操業を始め、翌年には7万6313缶を生産し、7106円(現在の物価にすると数億円)を売り上げました。

 缶詰のラベルには輸出のために、“VENISON”(鹿肉)、“KAITAKUSHI”の文字が見られます。

乱獲と雪害が重なり
毛皮の生産数は激減

 10月には石けんの原料となる脂肪の精練所が、翌年には血液、内蔵から人工的に硝石を作る製造所が建てられ、事業は順調に拡大していくかと思われました。

「好事魔多し」ということわざがありますが、エゾシカ事業はその典型でした。1879年に北海道全域はまれにみる大雪に見舞われ、大量のエゾシカが餓死したと伝えられています。

 この年の缶詰の生産高は前年の3分の1以下の2万缶台に落ち込みました。鹿皮のほうは4万6385枚と前年よりも多く生産しているので、死体から毛皮を作っていたのかもしれません。

 毛皮の生産数は、1875年をピークに減少傾向が続いていたので、捕り過ぎだったと思います。個体群の増加分以上を捕獲する乱獲と大雪が重なり、毛皮の生産数は1880年に1万2658枚とピーク時の約6分の1に落ち込みました。そして、原料が不足したのでしょう、1880年に缶詰の製造が中止されました。

 開拓使に代わって行政を担った北海道庁は1890年にエゾシカを禁猟にしました。エゾシカを保護して個体数の回復を待とうというわけです。20年が経ちました。どんな根拠があったのかわかっていませんが、エゾシカ猟が解禁されました。